弱い自分の計《はかりごと》をしなければならぬということが、いつになく深くお増の心に考えられた。それからそれへと移って行くらしい、男の浮気だということも、思わないわけに行かなかった。いつ棄てられても、困らないことにさえしておけば、欲に繋《つな》がる男心の弱味をいつでも掴《つか》んでいられそうに思えた。お増は自分の心の底に流れている冷たいあるものを、感ぜずにはいられなかった。
「あの人の神さんなぞは、私に言わせれば莫迦さ。」
お増はそうも思った。勝利者のような誇りすら感ぜられるのであった。
晴れ晴れした顔をして湯から帰って来た浅井は、昨宵《ゆうべ》の食べ物の残りなどで、朝食をすますと、じきに支度をして出て行った。お増は男を送り出すときいつでも経験する厭な心持を紛らそうとして、お千代婆さんの家を訪ねた。
「へえ、それでもよく飽きもせずに、三日も四日も、寝てばかりいられたものだね。」
そう言っていそうなお千代婆さんの目の色が、嶮《けわ》しかった。
お増は、昨日《きのう》浅井と一緒に出て買って来た、銘仙《めいせん》の反物を、そこへ出して見せた。
「これを私の袷羽織《あわせばおり》に仕立てたいんですがね。」
婆さんは反物を手に取りあげて、見ていた。そして糸を切って、尺《さし》を出して一緒に丈を量《はか》りなどした。
「どうでしょう柄は。」
お増は婆さんの機嫌を取るように訊ねた。
「じみ[#「じみ」に傍点]でないかえ、ちっと。」
「私じみなものがいいんですよ。もうお婆さんですもの。」
お増は自分の世帯持ちのいいことに、自信あるらしく言った。
十二
浅井の細君が、ふとそこへ訪ねて来た。
「御免下さい。」
どこか硬いところのある声で、そういいながら格子戸を開けたその女の束髪姿を見ると、お増は立ちどころにそれと感づいた。細君は軟かい単衣《ひとえ》もののうえに、帯などもぐしゃぐしゃな締め方をして、取り繕わない風であった。丈の高いのと、面長《おもなが》な顔の道具の大きいのとで、押出しが立派であったが、色沢《いろつや》がわるく淋しかった。
細君は格子戸を開けると、見通しになっている茶の間に坐った二人の顔を見比べたが、傘《かさ》を持ったままもじもじしていた。
お増は横向きにうつむいていた。
「おやどなたかと思ったら、浅井さんの奥さんですかい。」
お千代婆さんはそこを離れて来た。
「さあどうぞ。」
「有難うございます。」
細君は手※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》で汗ばんだ額などを拭いていたが、間もなく上へあがって挨拶《あいさつ》をした。そして時々じろじろとお増の方を眺めた。
「この方は近所の方ですがね。」
お千代婆さんは、お増を蔭に庇護《かば》うようにしながら言った。
「さいでございますか。」
顔の筋肉などの硬張《こわば》ったお増は、適当の辞《ことば》も見つからずに、淋しい笑顔《えがお》を外方《そっぽ》へ向けたきりであったが、その目は細君の方へ鋭く働いていた。そして細君が何を言い出すかを注意していた。
「浅井さんも、このごろじゃ大分御景気がいいようで、何よりですわな。」
お千代婆さんはお愛想を言いながら、お茶を淹《い》れなどした。
「何ですかね。」細君は気のない笑い方をした。
「外じゃどうだか知りませんけれど、内はちっともいいことはないんですよ。それに御存じですか、このごろは子供がいるものですから、世話がやけてしようがないんでございますよ。」
細君は断《き》れ断《ぎ》れに言った。
「そうですってね。お貰《もら》いなすったってね。」
「何ですか。料理屋とか、待合とかの女中と、情夫《いろおとこ》との間《なか》に出来た子だそうですよ。子供がないから、貰って来たっていうんですけれど、何だか解りゃしませんよ。こちらへはちょいちょい伺いますの。」
「たまあに見えますがね。」
お増は莨をふかしながら、じっと二人の話に聴き入っていたが、平気でそうしたなかに置かれた自分を眺めている自分の心持が、おかしいようであった。
「私|後《のち》に来ますわ。」
お増は反物を隅の方へ片づけると、そう言って、そこを出た。そして細目に開けてあった水口の方からそっと家へ入った。
三十分ばかり、不安な待ち遠しい時が移った。細君はじきに帰って行った。
「方々尋ねてあるいている様子だぜ。」
お千代婆さんは、客を送り出すと、急いで下駄を突っかけてやって来た。
「お増さんも、あんなに長く引き留めておくというのが悪いわな。」
「私を何だと思っていたでしょう。」
お増は眉根《まゆね》を顰めた。
「それは解るもんじゃない。私も何とも言い出しゃしないもんだから。」
十三
麹町の方へ引き移ってから、お増はどうかすると買いものなどに出歩いている浅井の細君の姿を、よそながら見ることがあった。
そのころには、一夏過したお増の様子がめっきり変っていた。世のなかへ出た当時の、粗野《ぞんざい》な口の利《き》き方や、調子はずれの挙動が、大分|除《と》れて来た。櫛《くし》だの半襟《はんえり》だの下駄などの好みにも、下町の堅気の家の神さんに見るような渋みが加わって来た。どこか稜《かど》ばったところのあった顔の輪郭すら、見違えるほど和らげられて来た。
「ほんとにお前さんは、憎いような身装《なり》をするよ。」
新調の着物などを着て訪ねて行くお増の帯や、襦袢の袖を引っ張って見ながら、お雪がうらやましそうに言った。
「今のうち、もっと派手なものを着た方がいいじゃないの。」
「ううん、派手なものは私に似合《にあ》やしないの。それにそんなものは先へ寄って困るもの。」
浅井はそのころ、根岸の方の別邸へ引っ込んでいる元日本橋のかなり大きな羅紗《ラシャ》問屋の家などへ出入りしていた。店を潰《つぶ》してしまったその商人は、才の利く浅井に財政の整理を委《まか》すことにしていた。浅井はほかにも、いろいろの仕事に手を染めはじめていた。会社の下拵《したごしら》えなどをして、資本家に権利を譲り渡すことなどに、優《すぐ》れた手際を見せていた。
お増を移らせる家を、浅井は往復の便を計って、すぐ自分の家の四、五丁先に見つけた。そこへ新しい箪笥《たんす》が持ち込まれたり、洒落《しゃれ》れた茶箪笥が据えられたりした。
「燈台下暗しというから、この方がかえっていいかも知れんよ。」
浅井は初めてそこへ落ち着いたお増に、酒の酌《しゃく》をさせながら笑った。もうセルの上に袷羽織でも引っ被《か》けようという時節であった。新しい門の柱には、お増の苗字《みょうじ》などが記されて、広小路にいた時分、よそから貰った犬が一匹飼われてあった。ふかふかした絹布の座蒲団《ざぶとん》が、入れ替えたばかりの藺《い》の匂いのする青畳に敷かれてあった。浅井の金廻りのいいことが、ちょっとした手廻りの新しい道具のうえにも、気持よく現われていた。
ワイシャツ一つになって、金縁眼鏡をかけて、向う前に坐っている浅井の生き生きした顔には、活動の勇気が、溢《あふ》れているように見えた。お増の目には、その時ほど、頼もしい男の力づよく映ったことはかつてなかった。
浅井の調子は、それでも色の褪《あ》せた洋服を着ていたころと大した変化《かわり》は認められなかった。人柄な低い優しい話し声の調子や、けばけばしいことの嫌《きら》いなその身装《みなり》などが、長いあいだ女や遊び場所などで磨かれて来た彼の心持と相応したものであった。
ここへ移ってからも、お増の目には、お千代婆さんの家で、穴のあくほど見つめておいた細君の顔や姿が、始終|絡《まつ》わりついていた。
「あなたのお神さんを、私つくづく見ましたよ。」
お増はその当時よく浅井に話した。
「へえ。家内の方じゃ何とも言やしなかったよ。少しは変に思ったらしいがね。」
「そこが素人《しろうと》なんですよ。」
お増は気の毒そうに言った。
「私あの人と二人のときのあなたの様子まで目につきますよ。」
お増は興奮した目色をして、顎《おとがい》などのしっかりした、目元の優しい男の顔を見つめた。
十四
迷宮へでも入ったように、出口や入口の容易に見つからないその一区画は、通りの物音などもまるで聞えなかったので、宵になると窟《あな》にでもいるようにひっそりしていた。時々近所の門鈴《もんりん》の音が揺れたり、石炭殻の敷かれた道を歩く跫音《あしおと》が、聞えたりするきりであった。
二人きり差し向いの部屋のなかに飽きると、浅井は女を連れ出して、かなり距離のある大通りの明るみへ楽しい冒険を試みたり、電車に乗って、日比谷や銀座あたりまで押し出したりした。
小綺麗な門や、二階屋の立ち並んだ静かな町を、ある時お増は浅井につれられて歩いていた。二人は一緒に入るような風呂桶《ふろおけ》を買いに出た帰路《かえり》を歩いているのであった。桶を買うまでには、お増は小人数な家で風呂を焚《た》くことの不経済を言い立てたが、浅井はいろいろの場所におかれた女を眺めたかった。
灯影の疎《まば》らなその町へ来ると、急に話を遏《や》めて、女から少し離れて溝際《どぶぎわ》をあるいていた浅井の足がふと一軒の出窓の前で止った。格子戸の上に出た丸い電燈の灯影が、細い格子のはまったその窓の障子や、上り口の土間にある下駄箱などを照していた。お増はすぐにそれと感づけた。
「およしなさいよ。」
お増はこっちから手真似をして見せたが、男は出窓の下をしばらく離れなかった。家はひっそりしていた。
「へえ、あれが本宅?」
お増はよほど行ってから、後を振り顧《かえ》りながら言い出した。浅井は「ふん。」と笑ったきりであった。
「随分いい家ね。」お増は独《ひと》り語《ごと》のように言った。
「でも前を通れば、やっぱりいい心持はしないでしょう。可哀そうだとか何とか思うでしょう。」
「へへ。」と浅井は笑い声を洩《も》らした。
帰ってからも、お増はいろいろのことを浅井に訊ねた。
「それは毅然《しっかり》した女だ。人との応対も巧いし、私がいないでも、ちゃんと仕事の運びのつくように、用を弁ずるだけの伎倆《はたらき》はある。それは認めてやらないわけに行かんよ。その点は、私の細君として不足はないけれど――。」
浅井は言い出した。
「じゃ、なぜ大事にして上げないんです。」
「そうも行かんよ。女はそればかりでもいけない。むしろそんな伎倆《はたらき》のない方が、私にはいいんだ。」
そう言って浅井は笑っていた。
昼間お増は、その家の前を通って見たりなどした。ふと八百屋の店先などに立っている細君の姿を見たこともあった。細君は顔の丸い、目元や口元の愛くるしい子供を、手かけで負《おぶ》いなどしていた。お増は急いで、その前を通り過ぎた。
冬になると、浅井の足が一層家の方へ遠ざかった。たまに細君や子供の様子を見に帰っても、一ト晩とそこに落ち着いていられなかった。ヒステレーの嵩《こう》じかかって来た細君は、浅井の顔を見ると、いきなりその胸倉に飛びついたり、瀬戸物を畳に叩《たた》きつけたりした。浅井は蒼い顔をして貴重な書類などを入れた鞄《かばん》をさげて、お増の方へ逃げて来た。
「こら、どうだ。」
浅井は胸紐《むなひも》の乳《ち》を引き断《ちぎ》られた羽織を、そこへ脱ぎ棄てて、がっかりしたように火鉢の前に坐った。
十五
一週間の余も、うっちゃっておいた本宅の方へ、浅井はある日の午後、ふと顔を出してみた。そこへ来ているはずの手紙も見たかったし、絶望的な細君に対する不安や憐愍《れんびん》の情も、少しずつ忿怒《ふんぬ》の消え失せた彼の胸に沁みひろがって来た。長いあいだ貧しい自分を支えてくれた細君の好意や伎倆《はたらき》も考えないわけに行かなかった。
「離縁するほどの悪いことを、私に対してしていないんだから困る。」
浅井は時々思い出したように、当惑の眉を顰めた。そのたびにお増は顔に暗い影がさした。
「あなたは一体気が多いんです
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