すよ。」
 お増は顔を顰めながら言い足した。
「田舎の人は、これだから困る。」
 浅井は手紙を火鉢の抽斗《ひきだし》へそっと入れて、起ちあがった。
「それならそれで、立たす支度をしなけあならん。」

     三十七

 明日はいよいよお今が立って行くという日の来た時などは、浅井は外へ出てもじきに帰って来た。そこにお増が病院へ行っている留守を、お今は独りで、階下《した》の座敷で新しい自分の着物を縫っていた。静子もお今に一枚一枚縫ってもらった人形の蒲団や着物や、大きい小さいいろいろの人形の入った箱を出して、傍に遊んでいた。箱のなかにはいつもするように、屏風《びょうぶ》などを立て、人形の家族が寝かされてあった。
「女の子って、こんな時分から厭味なことをして遊ぶのね。」
 お増は時々不思議そうにそれを眺めて、笑っていた。
「姉さんが帰ってしまったら、お前もう人形の着物など縫ってもらえやあしないぜ。」
 寒い外から入って来た浅井は、そこに突っ立って、手袋を取りながら言った。
「嘘ですね。姉さんはじき帰って来るんですよ。」
 お今は淋しげに自分を眺める静子に言いかけて、糸屑《いとくず》を払いながら起ちあがると、浅井の着替えをそこへ持ち出して来た。翌朝《あした》着て行く襦袢《じゅばん》が、そこに出来かけていた。お今の胸には、すっかり東京風に作って、田舎の町へ入って行くときの得意さや、兄や母に逢って、自分の動かしがたい希望を告げて、自由な体になって、再び東京へ出て来る時の楽しさや不安などが、ぼんやりと浮んでいた。
「帰ってしまえば、どうせそれきりになっちまいますよ。」
 お増はお今の前でもそう言っていたが、お今の頭脳《あたま》には、自分の陥ちて行く道がはっきりしていなかった。
「私どうしても、帰って来ますわ。お正月までには、きっと来てよ。」
 お今はそのたんびに言い張った。
 浅井は火鉢の傍で、買って来た汽車の時間表などを、熱心に繰って見ていた。
「これがいい。朝の急行が……。」などと、浅井はそこのところを指して、茶をいれているお今に示《み》せた。
 お今はそこへ手をついて、顔を突き合わせるようにして、畳のうえにある時間表を眺めていた。強い力で、体を抱きすくめられるような胸苦しさが感ぜられて来た。田舎へ立つことになってから、今まで挾まっていた何ものかが、急に二人の心に取り除かれたのであった。
「私今度出て来たら、またこっちへ来てもいいでしょうか。」
 お今はふと想い出したように頭を抬《あ》げた。
「いいとも。」
 浅井は頷《うなず》いて見せたが、女を別のところに置いてみたいような秘密の願いが、新しく心に湧《わ》いていた。
「しかし十分お今ちゃんの力になろうというには、ここでは都合がわるいかも知れない。」
 浅井は女を煽動《せんどう》するような、危険な自分の好奇心を感じながら言った。
 静子の後向きになって、人形に着物を着せたり脱がしたりしている姿が、しんとした部屋の襖《ふすま》の蔭から見られた。その目が、時々こっちを振り顧《かえ》った。
 野菜ものを買いに出て来た婆やと、病院から帰ったお増とが、ちょうど一緒であった。
 翌朝《あした》お今のたつ時、浅井は二階の寝室《ねま》でまだ寝ていた。階下《した》のごたごたする様子が、うとうとしている耳へ、伝わって来た。
 やがてお今があがって来て、枕頭《まくらもと》へ旅立ちの姿を現わした。
「それではちょっと帰ってまいります。」
 そこへ手をついてお今があらたまった挨拶をした。

     三十八

 お今を還《かえ》してしまってからの浅井は、この日ごろ張り詰めていた胸の悩ましさから、急に放たれたような安易な寂しさが、心に漲《みなぎ》って来た。静子をつれて、停車場まで見送って行ったお増が、二時間ばかり経ってから帰って来るまで、浅井はうとうとと寝所《ねどこ》のなかに、とりとめのない物思いに耽っていたが、展開せずに、幕のおりてしまったような舞台の光景がもの足りなくも思えた。やがて新しい幕が、自分の操《あやつ》り方一つでそこに拡がって来そうであった。
「ただいま。どうもいろいろ有難うございました。」
 お増は帰りに静子の手をひいてぶらぶら歩いたついでに銀座から買って来た、セルロイドの小さい人形や、動物などを、浅井の枕頭《まくらもと》へ幾個《いくつ》も幾個も転《ころ》がしながら、面白そうに笑った。
「ちょいと御覧なさいよ。」
「ふふ。」浅井も笑いながら、尻に錘《おもり》のついた動物どもを、手に取りあげて眺めていた。
「外に出てみると、年の少《わか》い女が目につきますね。」
 お増は枕頭《まくらもと》を起ちがけに思い出したように呟いた。
「どうしたって、女は十六、七から二十二、三までですね。色沢《いろつや》がまるでちがいますわ。男はさほどでもないけれど、女は年とるとまったく駄目ね。」
 浅井はやっぱりふふと笑っていた。
 浅井が床を離れて、朝飯をすまし、新調の洋服に身を固めて、家を出たときには、活動の勇気と愉快さが、また体中の健やかな脈管に波うっていた。込み合う電車のなかで、新聞を拡げている彼の頭脳《あたま》には、今朝立ったお今の印象さえ、もう忘られかけていたが、帰ってからの女の身のうえのどうなって行くかが、何となし興味を惹いた。
 殺人や自殺などの、血腥《ちなまぐさ》い三面雑報の刺戟づよい活字に、視線の落ちて行った浅井の心に、田舎へ帰ってから、気が狂ったというお柳のことが、ふと浮んで来た。浅井は目を瞑《つぶ》って、別れたその女の悲惨な成行きを考えて見た。一緒にいるころ、心に絡《まつ》わりついていた女の厭《いと》わしい性癖や淫蕩《いんとう》な肉体、だらしのない生活、浪費、持病、ヒステレカルな嫉妬《しっと》――それらが、今も考え出されるたびに、劇《はげ》しい憎悪《ぞうお》の念に心を戦《おのの》かせるのであった。
「お今なども、年とったらやっぱりあんなになるかも知れない。」
 浅井はそうも考えた。
 金に目の晦《くら》んだ兄に引き摺《ず》られて、絶望の淵《ふち》へ沈められて行った、お柳に対する憐愍《れんびん》の情が、やがて胸に沁《し》み拡がって来た。
 お柳の狂気《きちがい》になったことは、小林へあてての、お柳の兄からの手紙によって知れた。持って行った手切れの金などの、じきに亡くなってしまったことなどが、その手紙の文句から推測された。東京にいる時分に、もう大分兄の手で費消されたような様子も、小林の話でわかっていた。田舎へ帰ったときには、お柳のものといっては、もう何ほども残っていないらしかった。兄は不時に手にした大金に、急に大胆な山気が動いて、その金を懐にして相場に手を出したらしかった。
 お柳がふとある晩、東京へ行くといって、騒ぎ出したのは、この冬の初めのことであった。子供などを多勢かかえた嫂《あによめ》から厄介《やっかい》ものあつかいにされるのを憤って、お柳はそれまでにも、二度も三度も、兄と大喧嘩を始めたのであった。
「今となっては、君よりも、君の細君よりも、自分の兄を呪《のろ》っているらしいのだ。」
 浅井は小林からそんなことも聞かされたのであった。

     三十九

 会社の事務室へ入って行った浅井は、いつもかけつけの、帳簿などのぎっしり並んだデスクの前に腰かけたが、心が落ち着かなかった。建築物の請負いや地所売買の仲介などを営業としているその会社で、浅井は近ごろかなりな地位を占めて来たが、そこまで漕ぎつけるまでには、一身上にいろいろの変遷があった。会社内の誰にもそんなに頭を下げずに通されるようになった浅井は、時々過去を振り顧《かえ》ったり、立っている自分の脚元を眺めずにはいられなかった。関係したさまざまの女が、頭脳《あたま》に閃《ひらめ》いた。経済や自分の機嫌を取ることの上手なお増と一緒になってから、めきめき自分の手足が伸びて来た。
「お柳さんのような人と一緒にいては、とても有達《うだつ》があがりませんよ。」
 いつかそんなことをお増にいわれたが、それはそうかも知れないと、浅井も心に頷けた。
「それに、己もちょうど働きざかりだ。これで女にさえ関係しなければ、己も一廉《ひとかど》の財産ができる。」
 浅井は呟いたが、それだけではやっぱりその日その日の満足が得られそうもなかった。
「ちっと女からも取っておいでなさいよ。」
 お増は笑談らしく言うのであった。
「それじゃやっぱり駄目だ。金を費《つか》うからこそ面白いんだ。」
 客に接したり、手紙の返辞を書いたりしていると、じきに昼になった。紛糾《こぐらか》った事務に没頭した彼の忙しい心に、時々お今のことが浮んだ。隔たってからの少女から、どんな手紙が書かれるかが、待ち遠しいようであったが、仮に女を自分のものにしてしまってからの、内外の事件の煩わしさが、今から想像できるようであった。
 四時ごろに、会社を出て行った浅井と、一人の友達の姿が、じきにそこからほど近い、とある新道のなかへ入って行った。隘《せま》いその横町には、こまごました食物屋が、両側に軒を並べていた。やがて二人は、浅井が行きつけの小じんまりした一軒の料理屋の上り口に靴をぬぐと、堅い身装《みなり》をした女に案内されて、しゃれた二階の小室《こま》へ通った。
 箸と猪口《ちょく》の載った会席膳が、じきに二人の前におかれて、気づまりなほど行儀のいい女が、酒のお酌をした。ほどのいい軽い洒落《しゃれ》などを口にしながら、二人はちびちび飲みはじめたが、会社の重役や、理事の風評《うわさ》なども話題に上った。女遊びの話も、酒の興を添えていた。
 そこを出たころには、もう灯影が町にちらついていた。
 退《ひ》ける少し前に、会社へ電話のかかって来た、赤坂の女の方へ、浅井は心を惹かれていた。浅井はその女と、しばらく逢わずにいたのであった。
「どうなすって。いつかけてもあなたはいらっしゃらないのね。」
 女は笑いながら、浅井の安否をたずねた。
「私あなたのことで、少しよそから聞いたことがあるのよ。」
「何だ何だ。」と、浅井は少しまごついたような返事をしたが、多分知合いの小林の妾からでも聞いた内輪のことだろうと思った。
 幾年ぶりかで、浅井はその晩、お増がもといた家をそっと訪ねて見た。
 そのころの女の、もうほとんど一人もいなくなったその家の、広い段梯子《だんばしご》をあがって行く浅井の心には、そこを唯一の遊び場所にした以前の自分の姿が、目に浮んで来た。
「おや、黴《かび》の生えたお客様がいらしたよ。よく道を忘れませんでしたね。」
 浅井は廊下で見つかって古い昵《なじ》みの婆さんに、惘《あき》れた顔をしてそこに突っ立たれた。

     四十

 帰って行った当座、二、三度手紙が来たきり、ふっつり消息の絶えていたお今が、不意に上京して来たのは、翌年《よくとし》の一月も十日を過ぎてからであった。
 親や兄の意志一つで、すっかり取り決められてしまった縁談が、お今の思いどおりに、壊《こわ》されそうもない事情が、最初の手紙でわかっていたが、談《はなし》の長引くうちに、先方の親たちの気の変って来たような様子が、後の音信《たより》でほぼ推測された。お今の家よりも、身代などのしっかりした嫁の候補者が、他からも持ち込まれて来た。前にしかけた談《はなし》で、かなり親たちの気に入った口も一つ二つはあった。
「……縹緻《きりょう》ばかりやかましく言う人だそうですから、これまでにもいくたびとなく、世話人を困らせたのだそうです。私はその人と見合いもしましたが、どんな人でしたかよくも見ませんでした。見合いは媒介人《なこうど》の家でしたのでしたが、私は目をつぶって、その人と結婚することに決心しました……。」
 そんなことが、初めのうち手紙に書かれてあった。
「……媒介人《なこうど》の無責任から、話に少し行違いが出来たのだそうでございます。そんな財産家のうちへ、私を世話しようとしたのが、頭から間違っていたのです……。」
 暮に来た手紙には、そんな
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