ことが書かれてあった。
「財産家財産家って、一体いくらあるんだ。」
浅井は手紙を読んで聞かせながら、お増に訊いたが、お今の萎《しお》れている様子が、いじらしいようであった。
「出来たと言っても、一代|身上《しんしょう》ですからね、大したことはないんでしょう。」
上京したお今の頭には、そんな事件の前後に経験された動揺がまだ全く静まりきらずにいた。お増の古の仕立て直しのコートなどを着て、一旦送り返された荷物を、また持ち込んで来た時、浅井夫婦は、晩飯の餉台《ちゃぶだい》の側で、静子を揶揄《からか》いながら、賑やかな笑い声を立てていたが、気の引けるお今は長く居昵《いなじ》んだ、そこへ顔を出すさえきまりが悪そうであった。
「ほら姉さんが来ましたよ。あなたの好きな姉さんですよ。」
お増は自分の膝に凭《もた》れかかって、含羞《はにか》んだようにお今の顔ばかり眺めている、静子に言いかけたが、顔には何の表情もなかった。
「ふむふむ。」と、浅井は莨を喫《ふか》しながら、少しずつほぐれて来るお今の話に、気軽な応答《うけこたえ》をしていたが、じきに目蓋《まぶた》の重そうな顔をして、二階へ引き揚げて行った。
「今年ほどつまらないお正月はございませんでしたよ。」
お今は次へさがって、行李《こうり》から取り出して来た土産物を、そこへ出すと、やっと落ち着いたような顔をして言い出した。
「それに、行って見て、つくづく田舎の厭なことが解りましたわ。どんなことをしても、私東京で暮そうと思いましたわ。」
「それじゃ、やっぱりこっちで片着くのさ。」お増は無造作に言った。
「お婿さんはどんな人。もう縁談がきまったの。」
お今のことがまだ思い断《き》れずにいる、その男の縁談のまだ紛擾《ごたつ》いている風評《うわさ》などが、お今の耳へも伝わっていた。
四十一
婿に定められようとしたその男の、両親たちなどとの間《なか》の、擦《す》れ擦れになった感情が衝突して、お今の上京後一人で東京へ逃げ出して来たという事実が、じきにお今にあててよこした、その男の手紙で知れた。
室鎮雄《むろしずお》と署名されたその手紙の文句は、至極簡短であったが、お今を慕う熱情が、行の間にも溢《あふ》れていた。室はやっと二十四になったばかりであった。……一度あなたに直接お目にかかって、胸にあることだけを、十分聞いて頂きたいと思います。僕はそれで満足を得られます……そんな卑下した言《ことば》が連ねられてあった。
「莫迦《ばか》な男ね。」
お増は浅井の低声《こごえ》で読みあげるその手紙を笑い出したが、お今は何の感情も動かぬらしかった。
「でもこんなに迷わせて、可哀そうじゃないか。何とかしてやったらいいじゃないの。」
お増はお今を振り顧った。
「こんな手紙を貰って、どんな気がするの。」
「悪い気持はしないさな。」
浅井は笑いながら手紙をそこに置いた。
「本人同士で、話ができてしまったら、親たちはどうするでしょう。」
お増はそうも言って浅井に訊ねた。
帰郷前よりも一層|潤沢《うるおい》をもって来たお今の目などの、浅井に対する物思わしげな表情を、お増は見遁《みのが》すことができなかった。
夜一つに寝ているときに、お増は浅井のいないのに気がついたように考えて、ふと目のさめることがあった。活動写真でいつか見たような一場の光景が、今見た夢のなかへ現われていたことが疲れた頭に思い出された。風に揺られる蒼々した木立ちの繁みの間に、白々した路が一筋どこまでも続いていた。そこに男の女を追いかけている姿がかすかに見透《みすか》された。それが浅井とお今とであるらしかった。ふと白いベッドのなかに、雑種《あいのこ》のような目をしたお今の大きな顔と、浅井の形のいい頭顱《あたま》とがぽっかり見えだしたりしていた。今までいなかったような浅井の寝顔が、薄赤い電燈の光のなかに、黄色く濁ったように眺められるのが、覚めたお増の目に、気味が悪いようであった。
まじまじ天井を見詰めているお増の目に、いつか気の狂って死んだというお柳の姿が、まざまざと浮き出して来た。
時々兄や母の圧《おさ》えつける手から脱《のが》れて、東京へ行くといっては、もがき苦しんだり、家中|暴《あば》れまわったりしたというお柳の、死んだという兄からの報知《しらせ》が、浅井のところへ来たのは、ついこのごろのことであった。
お柳は夜中に、寝所《ねどこ》から飛び出して、田舎の寂しい町を、帯しろ裸の素足のままで、すたすた交番へ駈け着けたりなどした。
「ちょいと恐れ入りますがね、今私を殺すといって、家へ男が押し込んで来ましてね……。」
お柳はそう言いながら、蒼い死人のような顔をして、落ち窪《くぼ》んだ目ばかり光らせていた。
そこへ兄が、跡を追ってやって来た。兄とお柳との劇しい格闘が、道傍《みちばた》に始まった。おそろしい力が、痩せ細ったお柳の腕にあった。引き摺られて行ったお柳は、兵児帯《へこおび》で縛られて、寝所に臥《ね》かされたが、もうもがく力もなかった。
兄の留守のまに、お柳は時々|荒《あば》れ出して、年|老《と》った母親をてこずらせた。近所から寄って来た人々と力を協《あわ》せて、母親はやっと娘を柱に縛りつけた。
狂気《きちがい》の起りそうな時に、井戸端へつれて行って、人々はお柳の頭顱《あたま》へどうどうと水をかけた。
お柳の体はみるみる衰えて行った。
四十二
お柳の訃《ふ》が来たときに、お増からも別にいくらかの香奠《こうでん》を贈ったのであったが、兄はそのころ、床についた妹を、ろくろくいい医者にかけることも出来ないほど、手元が行き詰っているらしかった。死ぬまでに、小林を通して、いくたびとなく金の無心が浅井のところへ来た。浅井は三度に一度は、その要求に応じていた。
「そのお金が、お柳さんの身につけばよござんすがね。」
「どうせそれは兄貴の肥料《こやし》になるのさ。狂人《きちがい》が何を知るものか。」浅井は苦笑していた。
悲惨なお柳の死状《しにざま》が、さまざまに想像された。おそろしい沈鬱《ちんうつ》に陥ってしまった発狂者は、不断は兄や嫂《あによめ》などとめったに口を利くこともなかった。別室に閉じ籠《こ》められた病人を看護している母親に、おどおどした低声《こごえ》で時々話をするきりであった。兄を怕《おそ》れたり、嫂に気をかねたりする様子が、ありありその動作に現われていた。ちょっとした室外の物音や、話し声にも、不安な目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》るほど、鋭い神経が疑り深くなっていた。
大分たってから、一度上京したついでに訪ねて来た母親から、そんなことが小林によって伝わってから、お増は時々お柳の夢を見ることがあった。
「お前の神経も少し異《あや》しいよ。ふとしたらお柳が祟《たた》っていないとも限らない。」
浅井はそう言って揶揄《からか》った。
お今から、何の返辞をも受け取ることのできなかった室が、大分たってから、一度浅井の方へ出向いて来た。室はいくたびとなく、門の前を往来《ゆきき》してから、やっと入って来た。丈《たけ》の高い痩せぎすなその姿が、何気なしにそこへ顔を出したお増の目に映ったとき、一瞥《ひとめ》でこの間の手紙の主だということが知れたが、浅井の留守に、上げていいか悪いかが判断がつかなかった。しかし、お増の家のことなども、よく知っているその青年を、そのまま還す気にもなれなかった。
ややあって、二階へ通された室は、途中で買って来た手土産などをおいて、これという話もしずに、じきに帰って行ったが、当分東京にいて、また学校へ入ることになるか、それも許されなければ、どこかへ体を売って、自営の道を講ずるつもりだという、自分自身の決心だけは雑談のうちにほのめかして行った。
「お今ちゃん、お前さんお茶でも持って出たらいいじゃないか。」
お増は階下《した》へ降りると、奥へ引っ込んでいるお今に私語《ささや》いたのであったが、お今は応じなかった。
「いずれ御主人にもお目にかかって、何かと御意見も伺いたいと思っております。」
室はそう言って、いくらか満足したような顔をして出て行った。
「そんなに厭な男でもないじゃないか。彼《あれ》ならば上等だよ。」
お増は、後で座敷を片着けているお今に話した。
「だって、先方から破談にしたのじゃありませんか。」
「けど、軽卒《かるはずみ》なことは出来やしないよ。その人のためにもよくない。」
晩方に帰って来た浅井は、お今の話を聞きながら、そう言っていたが、自分の出方一つで、二人の運がどうでもなりそうに思えた。
四十三
浅井はそれからも、ちょいちょい訪ねて来る室を、一度などはお増も一緒に下町の方へ飯を食べに連れ出したりなどしたほど、好意と好奇心とをもって迎えた。
酒の二、三杯も飲むと、じきに真赤になってしまうような室は、心のさばけた浅井に釣り出されて、思っていることを浚《さら》け出して、饒舌《しゃべ》るのであったが、偏執の多い、神経質な青年の暗い心持が、浅井には気詰りであった。
「若い時分には、誰しもそんな経験がありますよ。世間のほかの女が少しも目に入らないというような時代があるものです。」
浅井は軽く応《う》けていたが、同情のない男のように思われるのも厭であった。
「とにかく今少し待って、時機を見て、今一度田舎の方へ話をして見たらどうですか。」
浅井はお今の保護者らしい、穏健な意見を述べたが、いつまでも女の心を自分の方へ惹《ひ》きつけておきたいような興味が、一層動いていた。仮にお今が、この男と結婚するような時が来る――その場合が、いろいろに想像された。
「失礼ですが、あなたのお考えで、御本人の意志はどうなんでしょうか。この場合の私にとって、それが先決問題なんですが……。」
室はそう言って訊《たず》ねた。
「別にこれと言って、はっきりした考えのありようもないのです。何分年が若いのですから。」
浅井は答えたが、お増も傍から口を出した。
「今のうちなら、あの娘《こ》はどうでもなりそうですよ。」
そこを出てから、途中で室に別れた浅井夫婦は、このごろ、根岸の別荘を売り払って、神田の通りへ洋酒や罐詰《かんづめ》、莨《たばこ》などの店を開けた、隠居の方へちょっと立ち寄ってから、家へ帰った。
「ああして一人の女を思い詰めて、思いが叶《かな》ったら、どんな気持がするでしょうね。」お増は電車のなかで、今別れた室の姿を目に浮べながら、言い出した。
「あの男なら、一生お今一人を守るでしょうよ。」
浅井はふふと口元に笑っていた。
「だけど、そんなでも面白かありませんね。」
神田の隠居の家では、初め思ったよりも、店の景気のいいことが、お芳の口から話された。隠居は飲み過ぎで腹を傷《いた》めて、ちょうど奥の室《ま》に寝ていた。若い男たちが二、三人、お芳の坐っている帳場の前で、新聞を見たり、店の客を迎えたりしていたが、ここへ移ってからお芳の気に引立ちの出たことが、浮き浮きしたその顔や様子でも知れた。そんな商売に経験のある、清吉という二十四、五の男が、一切を取り仕切っているらしかったが、それらの若い店のものを対手《あいて》に、売揚《うりあ》げをつけたり、商いをしたりすることが、長いあいだ気むずかしい隠居のお守りに、気を腐らしていたお芳には物珍しかった。
「お蔭さまでね、まあどうかこうか物になりそうなんでござんすよ。」
お芳は珍しい食べ物などを猟《あさ》って歩く二人に話しかけた。
物腰のやさしい清吉が、そこへ来て、いろいろの品物を見せたりなどした。
「旦那はあなた、それこそ何にも解りゃしないんでござんすよ。」
お芳は莨をつけて、お増に渡しながら言った。
「この人でもいてくれなかったら、てんで商売は出来やしません。」
お芳は傍に夫婦の買物を包んでいる、清吉の方を見ながら言った。切れ長な大きいその目が、みずみずした潤沢《うるおい》をもっていた。
「お芳さんも
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