「どんな人です。」
 小林の口から話される、談判の進行模様などを聞きながら、お増が訊きたがるのであった。
 小林の談《はなし》によって想像されるあれ以来のお柳は、持病のヒステレーが一層|嵩《こう》じているらしかった。春になってからは、浅井の一度も姿の見せぬ、物寂れた家のなかに、絶望的なその日その日を送っていたが、時々子供などをつれて、浅井の様子を捜《さぐ》りかたがた小林の細君の方へそっと遊びに来た。これまでに、浅井と一緒に苦労して来たことが、そのたびにその口から繰り返されるのであった。
「少し懐が温まって来ると、もうあんな女などに引っかかって。女が悪いんですよ。浅井だって今に目がさめますよ。」
 お柳はそう言いながら、どうかすると、居所さえ明かしてくれぬ小林に突っかかるような様子を見せたが、その都度小林の細君に慰められて帰って行った。
 小林がとても自分の味方でないことが、じきにお柳に解って来た。
「小林さんだって、ひどいじゃありませんか。」
 お柳は、田舎から出て来た兄と談判を進めようとしている小林の傍へ来て、口を開かさないまでに、いきり立って畳みかけた。夜もおちおち眠らないらしいその顔が、げっそり肉が落ちていた。
「私にくれるお金を、その人にくれて手を切らして下さい。」
 お柳はそう言って、肯《き》かなかった。
「そんならその人を、自宅《うち》へつれて来ておけばいいじゃありませんか。」
 お柳はそこまでも、終いに気が折れて来たのであった。
 お柳のそうした苦悶《くもん》を、お増は自分の胸にも響けて来るように感じた。お千代婆さんの家や、途中などで、二度も三度も見かけたことのある、お柳の蒼白い顔や、淋しい痩せぎすな後姿などが、まざまざ目に浮んで来た。
「やっぱりあなたが悪いんですよ。」
 お増は浅井の顔を眺めながら、そう思った。どんなことにも驚かないような優しい浅井の目は、怜悧《れいり》そうにちろちろ光っていた。
「兄貴ですか。そうさね。」小林はお増の顔を眺めて、
「かれこれ私くらいの年輩でしょう――四十七、八だね。収税吏もあまりいいところじゃないらしいよ。一度御馳走でもして、金の顔を見せさえすれば、それは請け合って綺麗に纏《まと》まる。金のほしいということは、ありあり見えすいているんだ。」
「お金はみんなその人の懐へ入ってしまうんでしょう。」お増は訊いた。
「どうせそうさ。」
 浅井が淋しく笑った。
「いいじゃないか、金がお柳さんの身につこうと着くまいと。」
 小林は言い出した。
 階下《した》へおりると、お雪がとんだところへ来合わせたというような顔をして、淋しそうに火鉢の側へ膝を崩していた。その前へ来て坐るお増の顔には、胸に溢《あふ》れる歓喜の情が蔽《おお》いきれなかった。

     二十七

 飲み出すと、いつも後を引く癖のある小林が、浅井と二、三番も碁を闘わしてから、帰って行ったのは、大分遅くであった。
「また始まったよ。」
 二階に碁石の音の冴《さ》えだした時に、ちょうどお雪からその令嬢の話など聞かされていたお増は、傍に針仕事をしているお今と、顔を見合わせながら呟いていた。お雪の口からは、お今が熱《ほて》る顔に袖をあてて、横へ突っ伏してしまうほど、きまりの悪いようなことが、話し出された。
「今度私にも加勢しろと、青柳がそう言うんだけれど、いくら何でもそんな罪なこと私に出来やしませんわ。つまり、私が現場へ呶鳴《どな》り込むかどうかするんでしょう。」
「へえ、そんな人の悪いことするの、まるでお芝居のようだね。」
 お増は目を丸くした。
「ほんとに私も厭になってしまったのよ。」お雪ははずかしそうにうつむいた。
「そんなことして、法律の罪にならないの。」
「どうだか解りゃしないわ。」
 お雪は苦笑していた。
 そこへ、ふらふらと降りて来た小林が、茶の間へ入って、女連に揶揄《からか》いながら帰って行った。
「奥さん、今夜からあなたは安心して寝られますよ。」
 小林は酒くさい息を吹きながら、
「その代り、今度はあなたの番ですよ。私が明言しておく。」
 小林はそう言いながら、衆《みんな》に送り出されて出て行った。
「厭なこと言う人だよ。」
 お雪がお今が寝静まってから、お増は蒲団のなかに横たわっている浅井の枕頭《まくらもと》へ来て、莨を喫《ふか》しながら、それを気にしていた。くやしまぎれに、小林に喰ってかかるお柳の険相な顔や、長いあいだ住みなれた東京の家を離れて、兄と一緒に汽車に乗り込んで田舎へ帰って行く姿などが、目に見えるようであった。
「あれだけは、己の失策だったよ。」
 浅井が興奮したような顔を抬《もた》げて言い出した。
「己は他に人から非難を受けるような点はないんだ。あれに懲りて、女には今後断然手を出さんということにしよう。」
「そうは行きませんよ。」
 お増はまじまじその顔を眺めていた。
「いや、あんな女もちょっとめずらしいよ。こうなるのが、彼奴《あいつ》の当然の運命だよ。己は決して可哀そうとは思わん。」
 長いあいだ、お柳に苦しめられて来たことが、浅井の胸に考えられた。
「でも、私は一生あの人に祟《たた》られますよ。」
「莫迦《ばか》言ってら。」
 浅井は笑った。
「後悔するのが当然だ。今でこそ話すが、あの女が二日も三日も家をあけて、花を引いてあるく裏面には、何をしていたか解るものか。あの女の貞操を疑えば疑えるのだ。」
「何かそんなことでもあったんですか。」
「まあさ……そういうことはないにしてもさ。とにかくこれでさっぱりしたよ。己はこれまでに、幾度あの女のために、刃物を振り廻されたか知れやしない。それに、あの持病と来ている。まず辛抱できるだけして来たつもりだ。」
「お鳥目《あし》がなくなったら、また何とかいって来ますよ、きっと。」
「そんなことに応じるものか。」浅井は鼻で笑った。

     二十八

 お柳の手もとに育てられて来た女の子が、お増の方へ引き渡されたのは、お柳|母子《おやこ》がいよいよ東京を引き払って行こうとする少し前であった。小林の家から、浅井が途中で買った翫具《おもちゃ》などを持たせて、その子をつれて戻った時、お増は物珍しそうに、話をしかけたり、膝に抱き上げたりした。
「これがお前の阿母《おっか》さんだよ。今日から温順《おとな》しくして言うことを聞くんだよ。」
 浅井にそう言われて、子供はにやにや笑っていたが、誰にも人見知りをしないらしいのが、お増にも心嬉しかった。
 昼からつれて来た子供は、晩方にはもう翫具《おもちゃ》を持って、独りでそこらにころころ遊んでいた。
「気楽なもんだね。」お増はお今と、傍からその様子を眺めながら言った。
「ちょいと、どこか旦那に似ていやしなくて。」
 お増はその横顔などを瞶《みつ》めながら、呟いたが、それはやはり自分の気のせいだとしか思われなかった。浅井の言ったとおりに、日本橋の方の、ある料理屋に女中をしていた知合いの女と、その情夫《おとこ》のある学生との間に出来た子だというのが、事実らしく思えた。女が情夫《おとこ》と別れて、独立の生活を営むにつけて、足手纏《あしてまと》いになる子供を浅井にくれて、東京附近の温泉場《ゆば》とかへ稼《かせ》ぎに行っているのだということも、真実《ほんとう》らしかった。
「どちらにしたっていいじゃないか。お前だって、今に子供の欲しいと思う時機《おり》があるんだから、これを自分の子だと思っていれば、それでいいわけだ。」
 浅井はそう言って、淡白に笑っていた。
 年の割りに子供のませたことが、日がたつに従って、お増の目に映って来た。子供はいつかお増の顔色などを見ることを知っていた。自分だけでは、子供と何の交渉を持ち得ないことが、だんだんお増に解って来た。憎むときは打《ぶ》ったり撲《は》ったりして、可愛がるときは頬っぺたに舐《な》めついたり、息のつまるほど抱きしめたりしたヒステレカルなお柳に、長いあいだ子供は弄《いじ》られていたらしかった。
「……可愛くも、憎くもありませんよ。」
 子供を傍に据えて、自分の箸《はし》から物を食べさせなどしながら、晩酌の膳に向っている浅井に、子供のことを訊かれると、お増は、いつもそう言って答えるよりほかなかった。
 着飾らせた子供の手を引いて、日比谷公園などを歩いている夫婦を、浅井もお増も、どうかすると振り顧《かえ》って見たりなどしたことが、三人連れ立って出歩いている時の、お増の心に寂しく浮びなどした。
「もう二人で歩くのはおかしい。」
 浅井はこう言っては、子供の悦びそうな動物園や浅草へ遊びに行った。子供も一緒に見る、不思議な動物や活《い》き人形などがお増の目にも物珍しく眺められたが、電車の乗り降りなどに、子供を抱いたり擁《かか》えたりする浅井の父親らしい様子を見ているのが、何とはなしに寂しかった。
「静《しい》ちゃんや静ちゃんや……。」
 お増は時々うっかり物に見入っている子供の名を呼んで、柔かい小さい手を引っ張りなどしたが、やはり気乗りがしなかった。
「母ちゃん――。」
 子供は父親のいない家のなかが寂しくなって来ると、思い出したように、抱いてでももらいたそうにお増の側へ寄って来るのであったが、女らしい優しさや、母親らしい甘い言葉の出ないのが、お増自身にももの足りなかった。
 お増は茶箪笥の鑵《かん》のなかから、干菓子を取り出して、子供にくれた。

     二十九

 静子と同じ年ごろの男の子が、時々門の外へ来て、「静子《ちずこ》ちゃん遊びまちょう。」などと声かけた。「はーい。」と奥から返事をして、静子は護謨鞠《ゴムまり》などを持って駈け出して行くのであったが、男の子は時々呼び込まれて家のなかへも入って来た。色の蒼い、体の※[#「兀+王」、第3水準1−47−62]弱《ひよわ》そうなその子は、いろいろな翫具《おもちゃ》を取り出してしばらく静子と遊んでいるかと思うと、じきに飽きてしまうらしかった。
「坊ちゃんのお父さんは何をなさるの。」
 二人で仲よく遊んでいる子供のいたいけな様子に釣《つ》り込まれながら、お増はいつか自分の荒く育った幼年時代のことなどを憶い出していた。町垠《まちはずれ》にあったお増の家では、父親が少しばかりあった田畑へ出て、精悍精悍《まめまめ》しくよく働いていた。夏が来ると、柿の枝などの年々なつかしい蔭を作る廂《ひさし》のなかで、織機《はた》に上って、物静かにかちかち梭《ひ》を運んでいる陰気らしい母親の傍に、揺籃《つづら》に入れられた小さい弟がおしゃぶりを舐《しゃぶ》って、姉の自分に揺られていた。夏になるとその子を負《おぶ》って、野川の縁《ふち》にある茱萸《ぐみ》の実などを摘んで食べていたりした自分の姿も憶《おも》い出せるのであった。
 男の子は、じきに迎いに来る女中につれられて帰って行った。
「僕の父さん博士でっ。」
 子供はお増の問いに答えた。
 その博士が、ある大学の有名な教授であることが、おりおり門口などで口を利き合うほどに心易くなった女中の口から、お増に話された。
「旦那さまは、それでも一年に四、五回もいらっしゃるでしょうかね。」
 そう言う女中は、小石川の方にある博士の邸《やしき》のことについては何も知らなかった。しかし子供の母親が、逗子《ずし》にある博士の別荘に召使いとして住み込んでいる時分に、ふと博士の胤《たね》を娠《はら》んだのだということや、ある権門から嫁《とつ》いで来た夫人の怒りを怖れてそのことが博士以外の誰にも、絶対に秘密にされてあることだけは知られてあった。
 門へ出て、時々子供を見ている、醜いその母親の束髪姿が、それ以来お増の注意を惹《ひ》いた。年のころ五十ばかりの博士は、不断着のまま、辻俥《つじぐるま》などに乗って、たまにそこへやって来るのであったが、それは単に三月とか四月とかの纏まった生活費と養育費とを渡しに来るだけに止まっていた。女は長いあいだ頑《かたくな》な独身生活を続けて来た。そして三千四千と、自分の貯金額の、年々増加して行くと同時に、
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