から酒に酔っていた。癇癪《かんしゃく》の強いらしいその目が、どんよりした色に濁って、調子が相変らず突拍子《とっぴょうし》であった。
 庭木や、泉水の金魚などに綺麗に霜除《しもよ》けのされた、広い平庭《ひらにわ》の芝生に、暖かい日が当って、隠居の居間は、何不足もなく暮している人の住居のように、安静であった。
「お揃いでおいでになったんだ。一つどこかへうまいものでも食べに行こうじゃごわせんか。」
 隠居は少しふらつくような、細長い首を振り立てて、妙な手容《てつき》をした。
 どこがよかろうかという評議が始まった。
「そのうえ酒を召し食《あが》って、皆さんに迷惑かけるよりか、今日はどこぞお芝居がいいじゃございませんか。」
 お芳が傍から言い出した。
「芝居もいいが、どこか顔を知らねえところへ行こう。知ったところは金がかかってしようがねえ。」隠居は捲《ま》き舌で言った。
「私はな、いくら零落《おちぶ》れても、遊び場所などへ出かけて行って、吝々《けちけち》するのは大嫌いだ。浅井さん、私は大体そういった性分だ。」
 今に行き詰って来ずにはおかぬ隠居の身のうえが、浅井にもお増にも見透されるようであった。
「お芳さんは、ああやっていて終《しま》いにどうするんでしょうね。」
 外へ出ると、お増は不安そうに訊いた。
「あの人、自分でお金をよけておくという風でもないのね。着物や何か、いくら拵えたって知れたものですわ。」
「それでも、まだ二年や三年はね。」浅井は薄笑いをしていた。
 二組の夫婦は、時々誘いあわして、浅草を歩いたり、相撲《すもう》見物に出かけたりした。そしていつも酔っ払って、隣の客に喰ってかかりなどする隠居のそばに、浅井もお増もはらはらしていたが、お芳は手※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》を口にあてて、顔を赧《あか》らめながら、後でくすくす笑っていた。
「何がおかしいんだい。」
 隠居は額に筋を立てて、お芳を呶鳴《どな》りつけた。それがまたおかしいといって、お芳は浅井夫婦と顔を見合わせて腹を抱えた。

     二十三

「私しばらくのあいだお宅に御厄介になっていてもよくて?」
 月が代ってから、痔《じ》に悩んでいた浅井が、伊豆《いず》の方へ湯治に行った留守に、お雪が不断着のままで、ふとある日お増のところへやって来た。
 お雪は前の家にいる時にも、青柳と喧嘩《けんか》したとかいって、一度泊りがけでやって来たことがあったが、その時はじきに青柳が来て連れて行った。
 黒い眼鏡などをかけた青柳は、そのおり浅井にもちょっと逢って挨拶をして行った。あまり風体《ふうてい》のよくない、そんな男の出入りすることは、浅井には快くはなかったが、お増は浅井に秘密《ないしょ》で、時々お雪に小遣いなどを貸していた。
「何だか自分の作った唄《うた》の本を出すんだとさ。」
 お雪は芝居の方がすっかり駄目になった青柳が、流行節のような自作の読売りを出版するその費用の融通を、お増に頼みに来たりした。
「あの人駄目よ。あんた一生苦労しますよ。それよりかあの人と手を切って、今のうち黒田に泣きついて、何とかしてもらったらどう。その話なら宅《うち》の旦那に相談したら、先方へ交渉《かけあ》ってもらえないこともなかろうと思うがね。」
 お増は、お雪が先に見込みもない芸人などに引き摺《ず》られているのを、歯痒《はがゆ》く思ったが、長いあいだ腐れあった二人のなかは、手のつけようもないほど廃頽《はいたい》しきっているのであった。
 前垂がけに、半襟の附いた着物を着て、ずるりと火鉢の傍へ寄って来たお雪は、地の荒れた顔にだらけた笑いを浮べていた。ひとしきりこの女にあった棄て鉢な気分さえ見られなかった。
「へえ。また喧嘩したの。」
 お増は気なしに訊いた。
「いいえ、そうじゃないの。」
 お雪は莨をふかしながら、にやにやしていた。
「青柳が少し仕事をするんだとさ。」
「仕事って何さ。」
「大変な仕事さ。」
 お雪はやはり笑っていた。
「後家さんでも瞞《だま》すのかい。」
「まあそういったようなもんさ。その相手がよそのお嬢さんなの。」
「へえ、罪なことをするね。」
 お増はそう思いながら、友達の顔を眺めていた。
 お雪は少し顔を赧らめながら、「それには私が家にいては都合が悪いのだとさ。」
「家へ引っ張り込むの。」
「多分そうでしょうよ。」
 お雪はきまり悪そうにうつむいていた。
「わたし、あの男あんなに悪い奴じゃないと思っていたら……どうして。」
 お雪は呟いた。
「芸じゃ駄目だから、色で金儲けをするなんて、あの男も堕落したものさ。あんな男に引っかかるお嬢さんがあるのかと思うと、気の毒のような気がするわ。それアお前さん、先《さき》は名誉のある人だもの、そんなことが新聞にでも出てごらんなさい、たまったもんじゃありゃしないわ。そこが青柳の附け目なのさ。」
「そのお嬢さん見たの。」
「いいえ。」

     二十四

「だけど私もう一度あんな気になって見たいと思うよ。若い時分には、大なり小なり皆なそんなようなことがあったじゃないの。」
 お雪は青柳が受け取ったという手紙の、心をこめた美しい文句やら、指環だの髪の道具だのの、青柳の手に渡った持物などから顔も様子もほぼ想像のできるような、その令嬢の淡々《あわあわ》しい心持を思い出していた。令嬢はちょっとした実業家の娘であったが、まだ年の若い派手ずきなその継母が堅気の女でないことだけは解っていた。
「ほら、二人で楽屋へ入って行ったことがあるじゃないかね。」
 お雪は田舎の町で、お増などと一緒に通っていた、常磐津《ときわず》の師匠のところへ遊びに来る、土地の役者の舞台姿などに胸を唆《そそ》られて、その役者から貰った簪《かんざし》を挿《さ》して、嬉しがっていたことや、手を引き合いながら、暗い舞台裏を通って、こわごわその部屋へ遊びに行ったことなどを、よく覚えていた。朝顔日記の川場の深雪《みゆき》などをしていた役者の面影が、中でも一番印象が深かった。
「……何でも三人で行った時だったよ。何が悲しかったのか、三人とも舞台も見ないで、おいおい泣いていたじゃないの。泣かなくちゃ悪いとでも思ったものだろうよ。」
 お雪はお増の手を打《ぶ》って、目に涙のにじむほど笑った。
「莫迦《ばか》だね。」
 お増も苦笑した。「あの時分はまだ真《ほん》の子供だもの。やっと十四か五だよ。」
「でも色気はあったんだわねえ。」
 紫の袴《はかま》をはいたお今が、「ただいま。」と言って帰って来たとき、お増は台所で瓦斯《ガス》の火で、晩の食べ物を煮ていたが、その傍に、お雪も何かの皮を剥《む》きながら、無駄話に耽《ふけ》っていた。
「だんだんよくなるよ、あの娘《こ》は――。」
 お雪は自分の部屋へ入って行くお今の後姿を見送りながら、呟いた。
「あんな娘《こ》を傍におくと、険難《けんのん》だよ。」
「ううん、まさか。」
「初めて見た時から見ると、まるで変ったよ。――あんな時分が一番いいわね。何の気苦労もなさそうで。私なんか、長いあいだ何をして来たんだろうと、そう思うよ。――こうしてこんなことして終いに死んじまうんだわね。」
 そう言うお雪の横顔が、お増の目に惨《みじ》めに見えた。張合いのなさそうな、懈《だる》いその生活がそぞろに憫《あわ》れまれもした。
「私まだあすこにいた時の方が、いくらか気に引っ立ちがあったよ。出てしまって、かえってつまらなくなってしまいましたよ。」
「でも青柳さんが、そんなことしていれば、やっぱりいい気持はしないでしょうね。」
「何でもありゃしませんよ。」
 お雪は剥くものを剥いてしまうと、それを目笊《めざる》に入れて、水口にいる女中の方へ渡した。そして柱に背《せなか》を凭《もた》せて、そこにしゃがんでいた。
「ちょいと、あなたとこのこれはどうして?」
 お雪は小指を出して見せて、「もう片着いて?」
「うん、まだ駄目なの。」
 お増は眉を顰《ひそ》めた。
「月が変ったら、|お柳《あのひと》の兄さんが田舎からその談《はなし》に出て来ることになってはいるんですけれどね。」
「家の青柳も、堅気になって、何かこんなようなことでも出来ないものかしら。」
 お雪は独り語《ごと》のように言っていた。

     二十五

「お増さん、今日は私ちょっと家へ行って見て来ますわ。」
 お増と差し向いの無駄話や花などに、うかうかした四日や五日はじきに過ぎてしまったある日の晩方、お雪はふと憶い出したように、毎日火鉢の傍に放下《ほったらか》してあった煙管《きせる》を袋に収めて出て行った。
「あなたはほんとうに仕合せだよ。」
 お雪は箪笥から出してみせる、お増の新調の着物などを眺めながら、そう言ってうらやましがっていたが、ここに居昵《いなじ》むにつれて、近ごろめっきりお増の生活の豊かになったことが、適切に解って来た。
 その日は午後にまわって来た髪結に、二人一緒に髪を結わしなどしたが、お雪は鏡に向って見る自分の、以前はお増などより髪の多かった頭顱《あたま》の地がめっきりすけて来たことが、心細かった。鏡台を据えた縁側の障子からは、薄い日影がさして、濁った顔の色が、黄色く鏡に映っていた。
「こら、こんなに禿《はげ》が大きくなったよ。」
 お雪は下梳《したす》きが、癖直しをしているとき、真中のすけた地を、指頭《ゆびさき》で撫でまわしながら、面白そうに笑った。
「もう十年も経《た》ったら、このへんはまるで毛がなくなってしまうよ。」
 お増は結立ての頭を据えて、側に莨をふかしながら見ていた。十六、七時分から、妾にやられたり、商売をさせられたりして来た、友達のこの十五、六年間の暗い生活が、振り顧《かえ》られた。
「鼠《ねずみ》の子を黒焼きにして飲むといいなんて、よくそんなことを言ったものだけれど、当てになりゃしない。」
 お増はそんなことを思い出していた。
「やっぱり体が弱っているんだよ。」
「とてもやりきれないと思うことがあるものね。」
 二人はそう言って、大話をしながら、髪結と一緒に笑った。
 家へ帰って行ったお雪が、二、三日してまた訪ねるころには、もう浅井の湯治場から帰って来た家のなかが、何となくごたついていた。
 来客のある二階から降りて来たお増の顔は、どこかいつもより引き締って、物思わしげであったが、食べ物の支度に取り散らかされた長火鉢の傍に坐って、銅壺《どうこ》に浸《つか》った酒の燗《かん》などを見ながら、待っているお雪の顔を見ると、意味ありげな目色をして、にやりと笑った。お雪はすぐにそれと呑み込めた。
「お柳さんの兄さんという人が、田舎から出て来たもんだから、急に話をつけることになったの。」
「へえ、その兄さんが来たの。」
「いいえ、間《なか》へ入る人――弁護士よ。」
「うまく行きそう。」
「ううん、どうだか。」
 お増は煙管を取りあげて、莨をふかしながら、考え深い目色をしていた。
「これは、とても承知しませんよ。」お増は小指を出してみせた。「だけど、兄さんという人が、田舎で役人をしていて、欲張りなんですって。それがお金次第で、どうでもなりそうなんだと。」
 お増は不安そうに呟いた。
「それに、宅《うち》じゃ随分綺麗な話をしているんだもの。先の身の立つように。」
 お増は落ち着いて、そこに坐っていなかった。
「あのお嬢さんどうしたの。」
 立ちがけにお増が聞いた。
「駄目よ、とうとう物にならずじまいだと。」お雪は苦笑した。
「誰が、あんなお爺さんに引っかかるものか。それに、来てみて、家の汚いのに惘《あき》れたでしょうよ。」

     二十六

 やがて銚子《ちょうし》を持って、二階へ上って行ったお増は、いろいろの打合せをしている浅井と小林弁護士との側に、お酌などをしながら、二、三十分も坐って話を聴いていると、すぐにまた下へ降りて来た。
 お柳の兄が来たという電報を受け取って、浅井が東京へ帰って来るまで、小林はもう二度もお柳の家で兄に会見しているのだということであった。
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