れた体を揺られながら、お柳の気のつかないような家を、あれこれと物色したが、蒼い顔したお柳が、どこまでもへばりついて来そうに思えてならなかった。
「綺麗に手を切ってしまわなくちゃ駄目ですよ。」
お増は暗い目をしながら、言った。
手土産などをさげて、本郷の方のある友人の家の門を叩いたのは、もう十二時過ぎであった。その友人は、近ごろお千代婆さんのところで知合いになった、ある雑誌の記者であった。
「まあ大変おそく――。」婆さんの家で浅井の旧《もと》から知っていたその細君は、寝衣姿《ねまきすがた》で出て来て門を開けた。そこにお増が笑いながら立っていた。蔭にいる浅井の顔には、寒さ凌《しの》ぎに途中で飲んだ酒の酔いがあった。
十九
夜のものなどの一向手薄なそこの家に、落着きのない一晩があけると、その午後浅井はつい近所に、当分お増を置くような下宿の空間《あきま》を探しに出た。
「とうとう見つかったんですかね。こわいこわい。」などと友人の細君が三つばかりの子供に乳を呑《の》ませながら、お増の身のうえを危ぶんででもいるような目色をしていた。
「じゃまあ今度|談《はなし》がつくんでしょう。」
「どうなるか解りゃしませんよ。」
その時二人はじめじめした茶の間の火鉢の側で、話し込んでいた。
一時の避難所に択《えら》んだ下宿の方へ移って行ってからも、浅井が外へ出て行った後の部屋が気窮《きづま》りになって来ると、お増はちょいちょい気のおけないそこの茶の間へ茶菓子などを持ち込んで遊びに来た。そこで髪などを結うことにした。
「私も子供が一人産んでみたいような気がするね。」
お増は無造作に自分の膝へ抱き取った子供の柔かい顔に、頬擦《ほおず》りなどしながら言った。
「貰って下さいよ一人。私のところでは、どしどし出来るそうですから。」
「ううん、くれるものか。大事に育てなけアいけないよ。」
二、三日たつと、何もなかった下宿の部屋へ、いろいろの手廻りのものが持ち込まれた。お増は何事か起っていそうな自分の家の様子が気にかかって来ると、そっとそこへ訪ねて行った。家には毎日裁縫や料理の学校へ通うお今のほかに、気丈夫そうな知合いの婆さんが一人、留守に頼んであった。
「あ、よしよし、お前ばかりだよ。そんなにしてくれるのは。」
お増はくんくん鼻を鳴らしながら、なつかしい主《あるじ》の膝や胸へ取りついて来る愛物の頭を撫でながら、買って来た干菓子《ひがし》などを壊《こわ》して口へ入れてやった。
「あれから誰も来ない?」
お増は家中を見廻りながら、明るい窓のところで、田舎へ出す手紙を書きなどしているお今の後から訊ねたが、やはりお柳の来たような様子はなかった。
「どうしたというんだろうね。」
何事もなければないで、お増はやはりそれが不安であった。そこに自分のために、不運な何物かが待ち設けているように思えた。
「こんなことしていたって、姉さんつまらないじゃないの。」
お今は箪笥から着替えを取り出しているお増の側から言い出した。
「着物なぞいくらあったって、日蔭者じゃしようがないじゃないの。」
堅気の田舎の家庭から巣立ちして来たばかりのお今の生《うぶ》な目には、お増の不思議な生活が、煩わしくも惨《みじ》めらしくも見えるのであった。
「それはお前さん方はそうさ。」
お増は笑っていた。
外湯に入りつけないお増は、自身湯殿へおりて、風呂の湯を焚《た》きつけたり、しばらく手にかけない長火鉢に拭巾《ふきん》をかけたりして働いていた。
日の暮れ方にお増は独りで、透《す》き徹《とお》るような湯のなかに体を涵《ひた》して、見知らぬ温泉場《ゆば》にでも隠れているような安易さを感じながら、うっとりしていた。
二十
赤坂の方で新たに借りた二階建ての家へ、やっとお増の落ち着いたのは、その年もぐっと押し詰ってからであった。それまでにお増は幾度となく、下宿と先の家との間を往来《ゆきき》したが、通りがかりに見る暮れの気の忙《せわ》しい町のさまが、そうして宙に垂下《ぶらさが》っているような不安定な心持に、一層あわただしく映った。
「これじゃお正月が来たって、しようがありゃしない。まるで旅にいるようなものだわ。」
お増はそう言いながら、いつ引き払って行くか知れない家の茶の間で、不自由な下宿では食べることの出来ない、自分の好きな煮物などで、お今と一緒に飯を食べながら言った。
そこへ浅井も、一日会社や自分の用を達《た》しに歩いていたその足で、寄って来た。
「今日ちょッと家へ行って見たよ。」
浅井は落着きのない目色をしながら、火鉢の側へ寄って来た。
「あの、奥様が旦那がお帰りになりましたらば、ちょいとでもいいから、おいで下さいましって。」
そう言って昨日の朝、お柳の方から使いが来た。それを聞いて、浅井は、そこへ廻って見たのであった。
「どんな様子でしたね。」
お増は訊いた。別れ談《ばなし》がうまく纏《まと》まるかどうかが、あの事件以来、二人の頭に懈《だる》い刺戟《しげき》を与えていたが、細君からすっかり離れてしまった浅井の心には、まだ時々かすかな反省と苦痛とが刺《とげ》のように残っていた。
「むむ別に変りはない。」
浅井は、自分から見棄てられてしまった、寂しい荒れた家のさまや、絶望の手を拡げてまだ自分に縋《すが》りつこうとしているようなお柳のやるせない顔を、今見て来たままに思い浮べながら、淋しく笑った。
「話を持ち出して見たのですか。」
「それも口を切って見たけれど、ああなると女は解らなくなるものと見えて、さっぱり要領を得ない。」
「それはそうですよ。それでどう言っているんです。」
「要するにお前を突き出してくれと言うに過ぎない。」
浅井はお柳がお増のことをいろいろ聞きたがったことなどを思い出していた。
「どうせ当人同士じゃ話の纏まりっこはありませんよ。誰か人をお入れなさいよ。」
「それにしても、目と鼻の間じゃ仕事がしにくい。早く家を見つけなくちゃ。」
新しい家の方へ、間もなく荷物がそっと運び込まれた。綺麗な二階が二タ間もあるようなその家は、前の家からみると周囲《まわり》なども綺麗で住み心地がよさそうであった。しばらくのまにめっきり殖《ふ》えた道具を、お増は朝から一日かかって、それぞれ片着けた。そして久しぶりで燥《はしゃ》いだような心持になって、そこらを掃いたり拭いたりしていた。
洒落《しゃれ》た花形の電気の笠《かさ》などの下った二階の縁側へ出て見ると、すぐ目の前に三聯隊《さんれんたい》の赭《あか》い煉瓦《れんが》の兵営の建物などが見えて、飾り竹や門松のすっかり立てられた目の下の屋並みには、もう春が来ているようであった。賑《にぎ》やかな通りの方から、楽隊の囃《はやし》などが、聞えて来た。
「ちょいと、ここならば長くいられそうね。」
置物などを飾っている浅井を振り顧《かえ》って、お増は悦《うれ》しそうに浮き浮きした調子で言いかけた。
二十一
心のわさわさするような日が、年暮《くれ》から春へかけて幾日《いくか》となく続いた。お増は暮の町を珍しがるお今をつれて、ちょいちょいした物を買いに、幾度となく通りの方まで出て行ったり、台所で重詰めなど拵えるのに忙しかったが、初めて一家の主婦として、いろいろのことに気を配っている自分の女房ぶりが、自分にも珍しかった。
羅紗《ラシャ》問屋の隠居が、引越し祝いに贈ってくれた銀地に山水を描いた屏風《びょうぶ》などの飾られた二階の一室で、浅井の棋敵《ごがたき》の小林という剽軽《ひょうきん》な弁護士と、芸者あがりのその妾《めかけ》と一緒に、お増夫婦は、好きな花を引いて、楽しい大晦日《おおみそか》の一夜を賑やかに更かした。
お歳暮に来る人たちの出入りするたびに鳴っていた門の鈴の音も静まって、そのたびにお今に呼ばれて下へ降りて行ったお増は、やっと落ち着いて仲間に加わることが出来た。本宅の方での交際《つきあい》も、今年は残らずこっちへ移されることになったのであった。水引きのかかったお歳暮が階下《した》の茶の間に堆《うずたか》く積まれてあった。
会社で浅井のそんなに顔の広いことを、お増はお今などの前にも矜《ほこ》らしく思った。
「へえ、またビールなの。そんなものを担ぎ込む人の気がしれないね。」
お増は宵のうちに、もう手廻しして結ってもらった丸髷《まるまげ》の頭を据えながら、長火鉢の傍から顔を顰《しか》めていた。
「奥さん奥さん、今年はあなた有卦《うけ》に入っていますよ。」
酒ずきな弁護士は、ぐでぐでに酔っても、まだにちゃにちゃする猪口《ちょく》を手から離さなかった。
「お柳さんの方は大丈夫、私が談《はなし》をつけてあげます。その代り私が怨《うら》まれます。少し殺生《せっしょう》だが、そのくらいのことは奥さんのために、私がきっとしますよ。」
弁護士は、太い青筋の立った手で、猪口をお増に差しつけた。
「いいえ。どうしたしまして。私はどうだっていいんです。」
お増は横を向いて、莨《たばこ》をふかしていた。
除夜の鐘が、ひっそり静まった夜の湿っぽい空気に伝わって来た。やがて友達の引き揚げて行った座敷に、夫婦はしばらく茶を淹《い》れなどして、しめやかに話しながら差し向いでいた。綺麗に均《なら》された桐胴《きりどう》の火鉢の白い灰が、底冷えのきびしい明け方ちかくの夜気に蒼白《あおざ》めて、酒のさめかけた二人の顔には、深い疲労と、興奮の色が見えていた。表にはまだ全く人足が絶えていなかった。夜明けにはまだ大分|間《ま》があった。
明朝《あした》は麗《うらら》かな、いい天気であった。空には紙鳶《たこ》のうなりなどが聞かれた。昨夜《ゆうべ》のままに散らかった座敷のなかに、ふかふかした蒲団を被《かず》いて寝ている二人の姿が、懈《だる》いお増の目に、新しく婚礼した夫婦か何ぞのように、物珍しく映った。部屋には薄赤い電気の灯影が、夢のように漂っていた。
「何だかあなたと私と、御婚礼しているようね。」
着替えをしたお増は屠蘇《とそ》の銚子《ちょうし》などの飾られた下の座敷で、浅井と差し向いでいるとき、独りでそう思った。そこへお今も、はればれした笑顔で出て来て、「おめでとう。」とはずかしそうにお辞儀をした。健かな血が、化粧した肌理《きめ》のいい頬に、美しく上っていた。
綱引きの腕車《くるま》で出て行く、フロック姿の浅井を、玄関に送り出したお増は、屠蘇の酔いにほんのり顔をあからめて、恭《うやうや》しくそこに坐っていた。
家のなかが、急にひっそりして来た。羽子の音などが、もうそこにもここにも聞えた。自分は自分だけで年始に行くときの晴れ着の襦袢の襟などをつけているうちに、もう昼になって、元日の気分がどことなくだらけて来た。
二十二
長火鉢の側の柱にかかった日暦《ひごよみ》の頁に遊びごとや来客などの多い正月一ト月が、幻のように剥《は》がれて行った。
お増は春になってから一度、二人打ち揃うて訪ねてくれた根岸の隠居の家へ浅井と一緒に出かけて行ったり、その連中と芝居を見に行ったりした。いつか浅井の骨折りで、それを抵当に一万円ばかりの金を借りたりなどした別荘に、隠居はお芳という妾と一緒に住んでいた。そして方々に散らかっている問屋時代の貸しなどを取り立てて月々の暮しを立てていたが、贅沢《ぜいたく》をし慣れて来た老人は、やはりそれだけでは足りなかった。時々古い軸が持ち出されたり、骨董品《こっとうひん》が売り払われたりした。色白の肉づきのぼちゃぼちゃした、目元などに愛嬌のあるお芳は、上がもう中学へ通っているこの子供たちと一緒に、劇《はげ》しいヒステレーで気が変になって東京在の田舎の実家《さと》へ引っ込んでいる隠居の添合《つれあ》いが、家政《うち》を切り廻している時分には、まだ相模《さがみ》の南の方から来て間もないほどの召使いであった。
五十三、四になった胃病持ちの隠居は、お増の訪ねて行ったときも、いつものとおり、朝
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