しく買ったら、それをあなたにあげますがね、当分それで間に合わしておおきなさいよ。鏡立《かがみた》てがあればたくさんですよ。」
お増はそう言って、長火鉢の傍で莨を喫《ふか》していたが、お今の執念が絡《まつ》わり着いているようで、厭であった。
いつまでも自分の部屋で、何かごそごそしていたお今は、やがて人顔の見えなくなったころに、すごすごと家を出た。
「静《しい》ちゃん、さよなら。」
お今は荷物などを作る自分の傍に、始終着き絡《まと》って離れなかった静子に声かけながら、門《かど》を離れて行った。
その翌日朝早く、お今は何やら忘れものをしたとか言って入って来ると、自分の居馴れた部屋の押入れなどを、そっちこっち掻き廻していたが、お増は黙って見ていた。
「今のうちなら、幾度来たってかまやしないけれど、旦那が帰ってからはいけませんよ。」
お増は駄目を押すように言って聴かせた。
「ええ、大丈夫来やしませんとも。」
お今は昨宵《ゆうべ》一晩自分の身のうえなどを考えて、おちおち眠られもしなかった体の疲れが、白粉を塗った、荒れた顔の地肌にも現われていた。目のうちも曇《うる》んでいた。朝の夙《はや》い階下《した》の夫婦が寝静まってからも、お今は時々消した電気をまた捻《ひね》って、机の前に坐ったり、蒸し暑い部屋の板戸をそっとあけて、熱《ほて》った顔を夜風にあてたりした。部屋にはまだ西日の余熱《ほとぼり》が籠っていて、病人のようないらいらしい一ト夜が、寝苦しくてしかたがなかった。怨《うら》めしいような腹立たしいような、やるせない思いに疲れた神経の興奮が、しっとりした暁《あ》け方《がた》の涼気《すずけ》に、やっとすやすや萎《な》やされたのであった。
お今は静子などを対手に、しばらく遊んでいたが、じきに帰って行った。
「室さんがきっとお前さんのことを訊ねますよ。どう言っておこうかしら。」
お増はお今の気を引くように、二度も三度も室の噂を持ち出したが、お今はいつも澄ましていた。
「従姉《ねえ》さんも随分勝手ね。」
お今はそうも言いたげであった。
お増の方からも、二、三度静子をつれて途中で茶菓子などを買って、そこの二階を訪ねて行った。格子のはまった二階の窓からは、下の水道栓《すいどうせん》に集まって来る近所の人や、その人たちの家の裏門などがあけ透けに見えた。水道端には残暑の熱い夕日が、じりじりと照っていた。
退屈な日が、幾日も幾日も続いた。じっと部屋に坐っていると、お今は時々|澱《おど》んだ頭脳《あたま》が狂いそうに感ぜられた。
五十二
「あなたに相談しようかとも思いましたけれど、それでは話が面倒ですから、私お留守のまにお今ちゃんを出してしまいましたよ。」
旅から帰って来たばかりで、何事も気づかずにいる浅井に、お増はあらたまった調子で言い出した。
浅井は癒《なお》るとも癒らぬとも片着かぬ叔父の田舎から貰って来た土産などを、やっと鞄から取り出しているところであった。むかし若い時分に、その妻が、自分の実の妹と良人《おっと》とのなかを知って、腹立たしさと恥かしさとに喉《のど》を切って死んだなぞという惨劇のあった、叔父の家のことを、お増もいつか浅井から聞かされて知っていた。
「それはそうなりますよ。」
姉から、何を言われても、義兄《あに》と切れることの出来なかった妹や、倉へ入って、白小袖を着て、剃刀《かみそり》で自殺したという姉のことを、浅井から聞いたとき、お増はそれを浄瑠璃《じょうるり》か何ぞにあるような、遠い田舎の昔風な物語とのみ聞き流していたのであった。
「お前がその姉だったらどうする。」
浅井は笑談を言っていた。
「私なら死んだりなぞしやしませんわ。逐《お》い出してしまいますよ。」
お増はそういって笑っていた。
長いあいだ憶い出しもせずにいたその出来事が、生々《なまなま》しくお増の心に浮んで来た。村で葡萄《ぶどう》を栽培したり、葡萄酒の醸造に腐心したりしていたという、その叔父の様子なども目に見えるようであった。自殺した連合いは、どんな女だったろうと想像されたり、叔父と甥《おい》との体に、同じ血が流れているらしく思われたりした。
お今の姿の匿《かく》されたことに心着いた浅井は、その当座深く問い窮《つ》めもしなかったが、お今の身のうえを、お増の考えで取り決められたことが不安であった。
「出したのなら出したでもいい。どこへやったか、それを聞こうじゃないか。」
浅井は酒気のある時なぞに、憶い出したようにお増を詰《なじ》った。
「私に隠して、仕事をしようというのなら、私も嚮後《こうご》一切お今のことについては、相談を受けんということにしよう。」
浅井は真面目《むき》になってそうも言った。
「いくらお前が隠したって、捜そうと思えばわけはないよ。罷《まか》り間違えば、警察の手を仮りることも出来るし、田舎を騒がして、突ッつきだすという方法もある。」そうも言って脅《おどか》した。
「そんならそうして捜したらいいでしょう。」
お増は言い張ったが、やはり隠し通すことが出来なかった。室《むろ》の方の話を纏めるにしても、浅井の力を借りないわけに行かなかった。
居所《いどころ》を知らさないで、お今が浅井のところへ出入りするようになったのは、それから間もなくであった。
五十三
「姉さんのところへ来ると、ほんとに気がせいせいしてよ。」
気づまりな宿の二階に飽きて、お増の方へ遊びに来たお今は、道具などに金のかかった綺麗な部屋のなかや、掃除の行き届いた庭などを眺めながら言った。袖垣《そでがき》のところにある、枝ぶりのいい臘梅《ろうばい》の葉が今年ももう黄色く蝕《むしば》んで来た。ここにいるうちに、よく水をくれてやった鉢植えの柘榴《ざくろ》や欅《けやき》の姿《なり》づくった梢《こずえ》にも、秋風がそよいでいた。近ごろ物に感傷しやすいお今の心は、そんなものにもやるせない哀愁をにじませていた。浅井の家では、若い女中が一人殖えたり、田舎から托《あず》けられた、浅井の姉の子だという少年が来ていたりして、たまに傍《はた》から来ているお今が、軽い反感を覚えるほど賑やかであった。衆《みんな》は、宵のうちに下の座敷に集まって、このごろ取り寄せた蓄音器などに、笑い興じていた。最近の一ト夏で、めっきりおしゃまさんになった静子の様子も、変って来た自分の身のうえの心持を、お今の目に際立たせて見せた。
「お今ちゃんも、いよいよ室さんと御婚礼かな。」
まだ晩酌の餉台《ちゃぶだい》を離れずにいる浅井は、避けてばかりいるようなお今が、ふとそこへ来て坐ると、そういって声かけた。お今は絡《から》みついて来る静子と、敷物などのしっとりした縁側にいた。
「室さんは、時々来るかね。」
浅井は訊ねた。
「いいえ。」
お今は今日もお増につれられて宿へ訪ねて来た室のことを訊かれるのが、くすぐったいようであった。
「少し都合があって、よそへ出してあるんですがね。」
お増は初めそういって、お今の居所を室に明かすことも出来ずにいたのであったが、自分に絡《まつ》わりついて来るような、男の心持が、見ていても苦しそうであった。差し向いにいてもあまり口数をきかぬお今の様子が、室の心を一層いらいらさせた。別居さしてある理由などに、疑いを抱いているらしい懊悩《もどか》しさが、黙っている室の目に現われていた。宿を出た三人は、途中その問題に触れることなしに、別れたのであった。
「お今も可哀そうですよ。」
お今が歩き遅れているときに、お増は謎でもかけるように呟いたが、室はそれを問い返そうともしないのであった。
座敷では、いろいろの譜が差し替えられた。
お増の顔色を見て、浅井の側を離れて行ったお今は、衆《みんな》と一緒にそれに聴き入っていたが、甲高《かんだか》な謳《うた》の声や三味線の音に、寂しい心が一層掻き乱されるだけであった。
「運動がてらみんなでそこまで送ろう。」
帰りかけようとするお今に、浅井は言いかけた。浴衣《ゆかた》のうえに、羽織を引っかけて、パナマを冠った浅井に続いて、お増も素足に草履《ぞうり》をつっかけて外へ出た。
暗い町続きを三人はぶらぶらと歩いていた。空には天の川が低く流れて、夜がしっとりと更けていた。
「一人帰すのは可哀そうだ、別荘まで送ろう。」
浅井は笑いながら、どこまでもとついて来た。三人はお今の宿のすぐ二、三町手前まで来ていた。
「いけませんよ。入浸《いりびた》りになっちゃ困りますよ。」
お増は笑いながら、とある四ツ辻《つじ》の角に立ち停った。水のような風が、三人の袂や裾を吹いていた。
五十四
室がちょいちょい訪ねて行くお今の二階へ、浅井もお増と一緒に行ったり、静子を連れたりして、たまには顔を出した。
室の身内にあたるという出張店をあずかっている若い男が、お今のことでちょいちょい浅井を訪ねて来てから、浅井もおのずからその話に肩を入れないわけに行かなかった。
「老主人の方だって、何もこちらの縁談が絶対にいけないと言うんじゃないんでござんすからな。」
前垂などをかけて、堅気の商人らしい風をしたその男は、そう言って話を進めた。
「もう一つほかの縁談を纏めてくれた方に対して、今さら義理が悪いというだけのことなのです。」
そんな話を一々素直に受け入れた浅井は自分からお今にも説き勧めた。そういう時の浅井の頭には、何らの矛盾もないらしく見えた。時がたちさえすれば、罅《ひび》の入ったお今の心が、それなりに綺麗に縫《と》じ合わされたり熨《の》されたりして行くとしか思えなかった。
浅井の見立てで、お今に着せて見たいと思う裾模様をおかせた紋附などが、お増と三人で三越へ行ったとき註文されたのは、それから間もない十月の末であった。お今が同意とも不同意とも、はっきり言いきらないうちに、話が自然《ひとりで》に固められて行った。
お今はどうかすると、燥《はしゃ》いだような調子で、支度などについての自分の欲望を、浅井一人の前に言い出した。お増の立てた見積りが、反抗的な甘えたお今の気分には、一つ一つ不満足であった。
浅井のところで、どうかすると室と落ち合う時などの、髪や着物を気にする、お今のそわそわした様子が、お増の目にも憎らしく見えて来た。お今は室が帰って行くあとから、お増に見せつけ気味らしくじきに出て行ったりなどした。
「ああなると、こっちが厭になってしまいますね。もうあなたのことなどは何とも思っていやしませんよ。」
お増は腹立たしそうに、後で浅井に話した。
「出来るだけ、支度でもよけいに拵えてもらおうという、欲だけなんですよ。」
年のうちに内祝言《ないしゅうげん》だけを、東京ですますことに話が決まるまでに、例の店員が、いくたびとなく浅井のところへやって来たが、お今の兄からも手紙が来たり、支度の入費が送られたりした。話が何のわだかまりもなく進んで行った。
新しい着物が仕立てあがるたびに、浅井はお今を呼びにやって、座敷でそれを着せて眺めなどした。下座敷の明るい電気の下などで、お今はふっくらした肌理《きめ》のいい体に、ぼとぼとするような友禅縮緬《ゆうぜんちりめん》の長襦袢《ながじゅばん》などを着て、うれしそうに顔を熱《ほて》らせて立っていた。汚れた足袋をぬぎすてた足の爪《つま》はずれなどが、媚《なま》めいて見えた。
「いいいい。」
浅井はこっちからその姿を眺めながら、声かけた。
「いいね、お今ちゃんは。」
お増も傍から、うっとりした目をして、眺めていた。
「私なぞ一度もそんなことはなかったよ。」
「己もないな」
浅井も傍から、溜息をついた。
「あなたはあったじゃありませんか。先のお神さんの時に。」
「ううん。」浅井は薄笑いをしていた。
「見惚《みと》れていちゃいけませんよ。」
興奮したような浅井の目に、お増は気づきでもしたように、急いでそれを脱がした。
五十五
「どうも有難うございました。」
脱いだ着物をきちん
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