はなしに話に耽って、二階へあがって臥床《ふしど》を延べたのは、もう二時過ぎであった。不安と恐怖とに、幻のような短い半夜があけた。
秘密の機会が、浅井によって二度も三度も作られた。
病人の枕頭《まくらもと》などで、おそろしいお増の顔と面と、向き合っている時ですら、お今はやるせない思いに、胸を唆《そそ》られるのであった。甘えるような驕慢《おごり》と、放縦な情欲とが、次第に無恥な自分を、お増の前にも突きつけるようになった。
お増は楊枝《ようじ》や粉を、自身浅井にあてがってから、銅壺《どうこ》から微温湯《ぬるまゆ》を汲んだ金盥《かなだらい》や、石鹸箱などを、硝子戸の外の縁側へ持って行った。庭には椿も大半|錆色《さびいろ》に腐って、初夏らしい日影が、楓《かえで》などの若葉にそそいでいた。どこからか緩いよその時計の音が聞えて来た。
朝飯のときも、お増はぴったり浅井の傍に坐って、給仕をしていた。そして浅井が何か言いかけると、「ハア、ハア。」と、行儀よく応答《うけこたえ》をしていた。毛に癖のない頭髪《あたま》が綺麗に撫《な》でつけられて、水色の手絡《てがら》が浅黒いその顔を、際立って意気に見せていた。
「二階の方は私がしますよ。」
お増は蔭にばかり隠れているお今の、二階へあがって行く姿を見ながら言いかけた。二階はまだ床なども、そのままになっていた。
「来ちゃいけませんよ、静《しい》ちゃん――。」
お今は段梯子の中途へ顔を出した静子に、上から邪慳《じゃけん》そうな声をかけた。
四十八
浅井のいない家のなかに、お増はお今と顔ばかり突き合わしてもいられなくなると、静子をつれだして、向うの博士の落胤《おとしだね》だという母子《おやこ》の家へ遊びに行ったり、神田の隠居の店へ出かけて行ったりした。そんな時に、気のおけない身の上ばなしの出来るお雪が、青柳と一緒にしばらく東北の方へ旅稼ぎに出ていて、東京にいないことが、お増には心寂しかった。
「今度は私も芝居をするんですとさ。」
お雪は旅へ出る少し前に、お増のところへ暇乞《いとまご》いに来て、いつものとおり、二日ばかり遊んでいながら、そう言って、変って行く自分の身のうえを嗤《わら》っていた。青柳は東京ではもう、どこも登るような舞台がなかった。
それはちょうど収穫《とりいれ》などのすんで、田舎に収入《みいり》のある秋のころであった。どこかとそんな契約が成り立ったと見えて、お雪は身装《みなり》なども比較的綺麗であった。新調のコートや傘なども、お増の目を惹いた。お増は、「この人はいつまでこんな気楽をいっているのだろう。」と、いつもお雪について考えるようなことを、その時もつくづく考えさせられたのであったが、気心に少しの変化もみえないお雪には、それを得意がっているような様子もあった。
「それで、私の出しものが阿古屋《あこや》なんですと。」
お増は阿古屋が何であるか、よくも知らなかった。
「へえ、そんなものが出来るの。」
「どうせ真似事さ。ことによったら、それを持って北海道の方へ廻るかも知れないのよ。そうすれば、お金がどっさり儲《もう》かるから、その時は借りたお金を、あなたにもお返しするでしょうよ。」
そう言って出て行ったきり、お雪からは何の消息《たより》もないのであった。いつまでたっても、頭の上りそうもない芸人などにくっついて、うかうかと年の老《ふ》けて行くお雪の惨《みじ》めさが、情なくも思えるのであったが、気のくさくさするような時には、寸時もお雪のような心持ではいられない苦労性の自分が、窮屈でもあった。
「あの人|終《しま》いに、野仆死《のたれじに》でもしやあしないかしら。」
お増は時々浅井と、お雪の噂をしていたが、いろいろの女に心の移って行く男一人に縋《すが》っている自分の成行きも、思って見ないわけに行かなかった。
「まだ、そんなことを思っているのかい。」
そうなる時の自分の行く末のために、金や品物などを用意することを怠らぬらしい、お増の箪笥の着物や、用箪笥の貯金の通帳などの目に入るたんびに、浅井はそういって、不断は苦笑していたが、嫉妬《やきもち》喧嘩の時などには、忌々《いまいま》しげにそれが言い立てられた。
しかし仲のいい時に、そんな金がまたいつか、その時々の都合で浅井の方へ融通されていた。
「また旦那に取られてしまった。」
お増は後でハッと思うようなことがあったが、その場合には、やっぱり隠し立てをすることが出来なかった。
静子をつれて、一日外を遊び歩いていると、家を出るとき感じていたような、お今に対する憎しみの念が、いつか少しずつ淋しいお増の胸に融《と》けて行かないではおかなかった。
神田の店はだんだん繁昌《はんじょう》していた。
お芳の若やいで来た顔の色沢《いろつや》が、お増にはうらやましいようであった。茶の間へ坐り込んで、厭な内輪ばなしなどに※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]《とき》を移していたお増は、行った時とは、まるで別の人のような心持で、電車に乗った。
四十九
お増は、浅井がもう帰っている時分だと思うと、電車のなかでも気が急《せ》くのであったが、隠居にいわれたことなどが、繰り返し考え出された。
「今のうちにお今さんを、どこかへ出しておしまいなさい。ことによったら、当分のうちどこぞ私の親類へお預かりしてもようがすよ。」
隠居は相変らず、酒気を帯びた顔を振り立てて言ってくれたのであった。
そんなことには何の意見も挟《はさ》まないお芳は、時々顔を赧《あか》らめて、お増の話に応答《うけこたえ》をしていた。
「お今さんも可哀そうですな。お婿さんが欲しいでしょうに、その金満家の子息《むすこ》さんと、一緒にしてあげたらどうです。」
お増は退《ど》けてしまってからの、若い女の体の成行きも考えてやらないわけに行かなかった。自分の良人のしたことを、田舎のお今の兄などに、知られるのも厭であった。単純に、二人の所業を憎んでばかりもいられないと思った。
灯影のちらちらする町や、柳の青い影が、暗い思いを抱いているお増の目の前を、電車の進行と一緒に、夢のように動いて行った。窓からは、夏の夕らしい涼しい風が吹き込んで、萎《な》えたような皮膚がしっとり潤うようであった。
「そう先の先まで考えたって、どうなるものか。」
お増はじきにいつもの自分に返った。いつまでも、こんな厭な思いをしてばかりいられないと思った。
いつか側に引き着けて、油を搾《しぼ》ったときのお今の様子などが、思い返された。お増はそれと前後して、浅井からも謝罪めいた懺悔《ざんげ》を聞いたのであったが、二人のなかは、やはりそれきりでは済まなかった。
「どうしたの。私に残らず話してごらんなさいよ。」
お増は落ち着いた調子で、お今を詰《なじ》ったが、お今は黙って、うつむいているきりであった。目が涙に曇《うる》んでいた。
「……それじゃお今ちゃん、あんまりひどいじゃないの。」
お増は、とうとうそんなことをされるようになった自分がいじらしいようであった。嫉《ねた》ましさに、掻《か》き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》ってもやりたいようなお今に、しゃぶりついて泣きたいような気もしたのであったが、やはり自分を取り乱すことが出来なかった。
後悔と慚愧《ざんき》とに冷めていた二人の心が、また惹き着けられて行った。家でも寝るときの浅井の姿の、側にいないことが、時々夜更けに目のさめるお増の神経を、一時に苛立《いらだ》たせるのであった。淋しい有明けの電燈の影に、お増は惨酷な甘い幻想に、苦しい心を戦《わなな》かせながら、時のたつのを、じっと平気らしく待っていなければならないのであった。
「はやくお今を引き離そう。」
お増はじれじれと、そんなことを思い窮《つ》めるのであったが、その手段がやはり考えつかなかった。
「あの子に傷をつける日になれば、それはどんなことだって出来ますよ。」
お増は浅井に愚痴をこぼした。
「そうすれば、お前のためにも、どうせよいことはないよ。」
浅井は笑っていた。
五十
書生の時分に、学資などの補助を仰いでいた叔父の病気を見舞いに、浅井がしばらく田舎へ行っている留守の間を見て、お増が小林などと相談して、とうとうお今の姿を隠さしてしまったのは、その年ももう涼気《すずけ》の立ちはじめるころであった。
それまでにも、お増とお今との間には時々の紛紜《いざこざ》が絶えなかった。お今はどうかすると、小蔭で自分の荷物などを取り纏めて、腹立ちまぎれにそっと家を出て行こうとしたり、死ぬ決心でもするかと、お増が気味を悪がるくらい、二日三日も暗い顔をして、台所の隣の陰気らしい四畳半に閉じ籠ったりしていた。小林がお今のために持ち込んで来てくれた縁談なども、お今の反抗的な心を一層混乱せしめた。
「姉さんに御心配かけてすみません。私の体などはどうなってもようございますから、どうぞ皆さんのよろしいように……。」
お今はそんな棄て鉢のような口を利きながら、目に涙をにじませていた。
「とにかく、本人の希望どおり、独立さしてやるようなことにしてやったらいいじゃないか。引き受けた以上は、己にも責任がある。」
浅井のそういう反対説に、そんな話もやはり成り立たずにしまった。
浅井が田舎へ立ってから、お増は思いついて室をも一緒につれて、三人で浅草辺をぶらついたり、飯を食べたりして、お今を男に昵《なじ》ませようと試みた。
「今でもやっぱりあなたは、あの人のことを思っていて。」
お増は、お今のいないおりに、そっと室に訊いてみたが、この男に秘密を打ち明けないでいることが、空おそろしいようであった。
「なぜです。」
室はそう言いたげに、にやりと笑っていた。
「あの人にも困ったもんですよ。」
お増は口まで出そうにするその秘密を、やはり引っ込めておかないわけに行かなかった。
「一度あなたから、よく訊いてみて頂戴よ。」
そこへ小用に行ったお今が、入って来た。三人はある小奇麗な鳥料理の奥まった小室《こま》で、ビールやサイダなどを取りながら話していた。廊下の手欄《てすり》に垂れた簾《すだれ》の外には、綺麗に造られた庭の泉水に、涼しげな水が噴き出していたり、大きな緋鯉《ひごい》が泳いでいたりした。碧《あお》い水の面《おもて》には、もう日影が薄らいでいた。湯に入って汗を流して来た三人の顔には、青い庭木の影が映っていた。お今は肥った膝のうえに手巾《ハンケチ》を拡げて、時々サイダに咽喉《のど》を潤していたが、室と口を利くようなことはめったになかった。
室はどうかすると、幽鬱《ゆううつ》そうに黙り込んでしまった。
「あなたはほんとに真面目だわ。」
お増はビールを注《つ》いでやったりなどしたが、室は苦しそうに時々飲んでいるだけであった。
「今度二人で、どこかへ行ったらどう?」
お増は調子づいたように言いかけたが、やはり自分でしくじった。
夕方に三人はそこを出て、じきに電車で家へ帰った。
「駄目駄目。」
お増は家へ入ると、着物もぬがずに、べったり坐って、溜息をついた。
「人の気もしらないで、この人はどうしたというんだろ。」
五十一
お増がある物堅そうな家を一軒、小林の近所に見つけて、そこへお今を引き移らせてから大分たって、浅井がちょうど田舎から帰って来たのであった。
そこは小林の妾《めかけ》の身続きにあたる、ある勤め人の年老《としと》った夫婦ものであった。お増から身のまわりの物などを一ト通り分けてもらって、その家の二階に住まうことになったお今は、初めて世帯でも持つときのような不安と興味とを感じながら、ある晩方に、浅井の家を出て行ったのであった。
お増がそこいらから見つけだして、お今のために取り纏めようとした品物は、大抵お今には不満足であった。お今はお増の鏡台や、櫛笄《くしこうがい》だの襟留《えりどめ》だの、紙入れなどのこまこました持物に心が残った。
「私が新
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