と畳んで、元の通り紙をかけてしまってから、お今の帰って行ったあとで、夫婦は、何かもの足りないように甘いいらいらしさを心に感じた。そこには萌黄《もえぎ》の布《きれ》の被《かか》った箪笥のうえに新しい鏡台などが置かれてあった。
「お前もちょっと着てごらん。」
浅井はお今の長襦袢を畳むとき、お増に言いかけた。
「私? 私にこんな派手な物は似合やしませんよ。」
体の痩せぎすな、渋い好みのお増は、着物の上へちょっと袖を片方《かたかた》通しただけでじきに止めてしまった。
「若い時分から私はそうでしたよ。」
写真に遺《のこ》っている、お増のその年ごろの生々《ういうい》しい姿が、浅井の目にも浮んで来た。勝気らしい口元のきりりと締った、下脹《しもぶく》れの顔は、今よりもずっと色が白そうで、睫毛《まつげ》の長い冴《さ》えた目にも熱情があった。写真のお増は、たっぷりした髪を銀杏返《いちょうがえ》しに結って、そのころ流行《はや》った白い帛《きれ》を顎《あご》まで巻きつけて、コートを着ていた。田舎の町で勤めていた家の子息《むすこ》の学生と、思いきった恋をしたというお増は、やっと十八か九であった。
古い話が二人の間に、また掘り返されはじめた。初めて商売に出て、その男を知った時のことなどが、情味に餒《う》えているような浅井の耳に、また新しく響いた。
「ねえ、あなた。」お増はしみじみしたような調子で言い出した。
「あの人の婚礼がすんだら、私たちも誰かを媒介《なこうど》に頼んで、お杯をしましょうか。あんまり年を取らないうちに、そんな写真も取っておきたいじゃないの。」
お増はそう言って、淋しげに笑った。
「心細いやね。」
浅井も女を憫《あわ》れむように空虚な笑い声を立てた。
「まだ我々はそんな年でもないよ。」
横になっていた浅井は、二筋三筋白髪のちかちかする鬢《びん》のところを撫でながら言った。そうして冬になってから、いくらか肉がついて来たが、目角《めかど》などにはまだ曇《うる》みのとれない妻の顔を眺めた。
「そうするにはまずお前の体から癒してかからなけあならない。入院して、思いきって手術をしてみたらどうだ。一ト月の辛抱だ。」
「厭々。」
お増は頭《かぶり》を振った。一ト月の入院のあいだに、家がどうなるか知れないという不安が、これまでにも始終お増の決心を鈍らせた。
「今年も来年も年廻りがわるいから、明後年《さらいねん》にでもなったら、療治をしましょうよ。」
しみじみした話に、時が移って行った。
このごろ色稼業《いろかぎょう》を止めて、溜めた金で、芝の方に化粧品屋を出した女のところからの帰りがけなどに、ふと独りでお今の二階へ寄って、疲れた体を休めて行くことなどがあった。お今は押入れから掻捲《かいま》きなどを出して来て、横になっている浅井にそっと被《き》せかけなどした。
花で夜更《よふか》しをして、今朝また飲んだ朝酒の酔《え》いのさめかかって来た浅井は、爛《ただ》れたような肉の戦《わなな》くような薄寒さに、目がさめた。綺麗にお化粧《つくり》をして、羽織などを着替えたお今が、そこに枕頭《まくらもと》の火鉢の前にぽつねんと坐っていた。
お今のいれてくれた茶に、熱《ほて》った咽喉《のど》や胃の腑《ふ》を潤しながら、浅井は何事もなさそうな顔をして、日の迫って来たお今の婚礼の話などをしていた。
五十六
埃《ほこり》っぽい窓の障子に、三時ごろの冬の日影が力なげに薄らいで来たころに、浅井はやっとそこを脱け出したが、遊びに耽り疲れた神経に、明るい外の光や騒がしい空風《からかぜ》がおそろしいようであった。先刻《さっき》まで被《き》ていた掻捲きなどの、そのままそこに束《つく》ねられた部屋の空気も、厭《いと》わしく思えて来た。
「私もそこまで出ましょうかしら。」
お今も、今まで二人で籠っていた部屋に、一人残されるのが不安であった。
「ねえ、いけないこと?」
お今は甘えるようにそういって、鏡の前で髪などを直していた。弄《もてあそ》ばれた自分の感情に対する腹立たしさと恥とを、押し包んででもいるような、いじらしいその横顔を、浅井は惨酷らしい目でじっと、眺めていた。
「お別れに一度どこかへ行こうかね。」
浅井は先刻《さっき》そういって、その時の興味でお今を唆《そそ》ったのであったが、お今は躊躇《ちゅうちょ》しているらしく、紅《あか》い顔をして、うつむいていたのであった。
「どこへ行くね。」
浅井は調子づいたような女に、興のさめた顔をして訊いたが、淡いもの足りなさが、心に沁み出していた。
「どこでもいいわ、私まだ見ないところが、たくさんあるから。」
「婚礼がすんだら、方々室さんに連れて行ってもらうといい。」
「それはそうだけれど、その前に……。」
室の名を聞くと、お今は間近に迫って来ている晴れがましい婚礼が、頭脳《あたま》にはっきり閃《ひらめ》いたが、その考えはやはり確実ではなかった。いつとも知らず、乗せられて来たその縁談が、支度などに気のそわそわする、その日その日の気分に紛らされて来たことが、一層心苦しかった。その間にも、お今は自分の手で切盛りをする世帯の楽しさや、人妻としての自分の矜《ほこ》りなどを、時々心に描いていた。財産家だという室の家を相続する日を考えるだけでも、お今の不安な心が躍《おど》るようであった。
「ほんとにお前さんは幸《しあわ》せだよ。辛抱さえすれば、十万円という財産家の家を、切り廻して行けるんだもの。」
室を嫌っているとしか考えぬお増のそういって聞かす言《ことば》の意味が、お今にはおかしく思えたり、自分から勧めた縁談に、気のいらいらするようなお増が、蔑視《さげす》まれたりした。
電燈のちらちらするころに、二人は銀座通りをぶらぶら歩いていた。
日の暮れたばかりの街に、人がぞろぞろ出歩いていた。燥《はしゃ》いだ舗石《しきいし》のうえに、下駄や靴の音が騒々しく聞えて、寒い風が陽気な店の明り先に白い砂を吹き立てていた。
「こんなところ、いつ来たって同じね。」
お今は蓮葉《はすは》なような歩き方をして、不足そうに言った。近ごろ出来たばかりの、新しい半コートや、襟捲きに引き立つその姿が、おりおり人を振り顧《かえ》らせていた。
「どこかもっと面白いところへ連れていって頂戴よ。」
お今は体を浅井に絡《から》みつくようにして低声《こごえ》で言った。
五十七
翌朝《あした》お今が訪ねて行った時、浅井もお増もまだ二階に寝ていた。
浅井の甥の学校へ行ったあとの茶の間は、しんとしていた。そこに静子が、千代紙などを切り刻みながら、寂しげに坐っていた。昨夜《ゆうべ》すぐこの近所で別れた浅井が帰ってからの家の様子を嗅《か》ぎ出そうとでもするように、お今はいらいらしげに、そっちこっち部屋のなかを歩いていた。若い方の女中は、縁側の硝子障子に、せっせと雑巾がけをしていた。
時計が九時を打ってから、やっと二階から降りて来たお増は、明るい階下《した》の光に、目眩《まぶ》しそうな目をして、火鉢の前に坐ると、口も利かずに、ぼんやりと莨をふかしていた。
近ごろ浅井の入り浸っている情婦《おんな》の店の近所を、お増は一昨日《おととい》の晩も、長いあいだ往来《ゆきき》していた。その情婦《おんな》のところへ、浅井はお柳のいたころの自分にしたように、株券や貴重な書類の入った手提げ金庫などを運んでいることが知れてから、二人の情交《なか》のだんだん深みへ入っていることが、お増に解って来た。情婦《おんな》の母親が、菓子折や子供への翫具《おもちゃ》などをもって、ある日浅井の留守に、奥さんにお昵近《ちかづき》になりたいといって、挨拶に来たことが、一層お増の心を、深い疑惑の淵《ふち》に沈めた。
「今度こそ真《ほん》ものだ。」
お増は小林などの讖言《しんげん》が、とうとう自分の身のうえに当って来たように信ぜられてならなかった。
お今の縁談が決まってから、浅井の心は一層|情婦《おんな》の方へ惹かれて行った。
「ほんとに憎らしい婆さんだよ。ああやって機嫌を取って、私を掌中《てのうち》に丸めこもうとするんだよ。」
お増は普通の女のように、野暮な仕向けもしたくなかった。そして当らず触らずに、その場は愛想よく遇《あしら》って還したのであったが、肉づきなどのぼちゃぼちゃした、腰の低いその婆さんの、にこにこした狡《ずる》そうな顔が、頭脳《あたま》に喰い込んでいて取れなかった。
「旦那にはいろいろとお世話さまになっておりますので、一度御挨拶に出なくちゃならないと始終そう申していたんでございますがね、何分店があるものですから……。」
婆さんは茶の間へ上り込んで、お増や子供に、親しい言《ことば》をかけたのであった。
浅井が留守になると、お増はその婆さん母子《おやこ》にちやほやされている状《さま》が、すぐに目に浮んで来た。まだ逢ったことのない女の顔なども、想像できるようであった。
「これを御縁に、手前どもへもどうぞ是非お遊びにいらして下さいましよ。そして仲よく致しましょうよ。」
婆さんのそういって帰って行った語《ことば》にお増ははげしい侮辱を感じた。
「どうして、喰えない婆さんですよ。母子《おやこ》してお鳥目取《あしと》りにかかっているんでさ。」
お増はくやしそうに後で浅井に突っかかったが、浅井は、にやにや笑っていた。
帰りのおそい浅井を待っているお増の耳に、美しい情婦《おんな》の笑い声が聞えたり、猥《みだ》らな目つきをした、白い顔が浮んだりした。
お増は寒い風にふかれながら、婆さんに教えられた、その店の居周《いまわ》りを、いつまでもうろうろとしていた。そして時々向う側にまわって、遠くからその方を透《すか》して見たが、硝子障子をはめた店のなかは、はっきり見えなかった。
やがてそこらの店がしまって、ひっそりした暗い町の夜が、痛ましいほど更けて来た。お増はやっぱりそこを離れることができなかった。
五十八
その翌日、お増は半日外で遊び暮すつもりで、静子をつれて、お芳の店などを訪ねて見たが、いろいろ引っかかりのある気が滅入《めい》って、話がいつものようにはずまなかった。
「今度という今度は、どんなことしたって駄目なの。」
お増はいつもの茶の間で、お芳夫婦に話した。
「私が理窟を言えば、お前に理窟を言われるような、だらしのないことはしておかないって言うし、それじゃ田舎へ帰りますとそういえば、お前の方で勝手に出て行くんだから、お金なんざ一文もやらないって言うし、それは私もいろいろやって見ましたの。だけど、ああなっちゃとても駄目なの。」
諍《あらそ》えば諍うほど、お増は自分を離れて行く男の心の冷たい脈摶《みゃくはく》に触れるのが腹立たしかった。ある晩などは、お増はくやしまぎれに、鏡台から剃刀《かみそり》を取り出して、咽喉《のど》に突き立てようとしたほど、絶望的な感情が激昂《げっこう》していたが、後で入り込んで来る情婦《おんな》のことが、頭脳《あたま》に閃《ひらめ》いて、後へ気が惹かされた。
「私はどうしたって、お柳さんのようにはならない。」
お増は、じきに自分と自分の心を引き締めることが出来た。
「浅井さんを、旧《もと》の人間にしようっていうにゃ、どうしたってあなたの体から手を入れてかからなけあ、駄目だと私は思うがね。」
隠居は笑いながら言った。
「家のお芳をごらんなさい、体がぽちゃぽちゃしていますから、私のような老人《としより》じゃ喰い足りねえとみえて、店の若いものに、色目をつかやがってしようがありませんよ。」
隠居はふらふらした首つきをして、顔を顰《しか》めた。
お芳はみずみずした碧味《あおみ》がかった目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、紅い顔をしていた。
「それでまた不思議なもんでして、こいつを店へ出しておくと、おかねえとでは、売り高の点で大変な差がありますよ。」
調子づいて自分のことばかり言い立てる、お
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