》から動かしたらしかった。
東京の生活の面白みに、やっと目ざめて来たお今の柔かい胸に、兄の持ち込んで来た縁談が、押石《おもし》のように重くかかって来た。日々に接しているお増夫婦のほしいままな生活すらが、美しい濛靄《もや》か何ぞのような雰囲気《ふんいき》のなかに、お今の心を涵《ひた》しはじめるのであった。
「兄さん、私どうしたらいいんでしょう。」
お今に長いその手紙を出して見せられた時、兄の言い条の理解のないことが、浅井に腹立たしく思えた。
お今が、田舎へ呼び戻されることに、同意しているらしいお増が、ちょうど子供をつれて、行きつけの小林の妾宅《しょうたく》へ遊びに行っていた。
「どうといっても、私が喙《くち》を出す限りでもないが……。」
浅井もお今のために、安全な道を選ばないわけに行かなかった。
「しかしお今ちゃんはどう思うね。」
浅井は手紙を捲き収めながら、お今の顔を眺めていた。
「わたし?」お今は甘えるような目色をして、「私東京がいいんですの。東京で独立ができさえすれば、私田舎へなぞ行くのは、気が進まないんです。私独立ができるでしょうか。」
「そうなれば、またその談《はなし
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