ぬ男などと口を利くのが不思議なほど億劫《おっくう》であった。
 どの部屋もひっそりと寝静まった夜更《よなか》に、お増の耳は時々雨続きで水嵩《みずかさ》の増した川の瀬音に駭《おどろ》かされた。電気の光のあかあかと照り渡った東京の家の二階の寝間の様などが、目に映って来た。そこに友禅模様の肩当てをした夜着の襟から、口元などのきりりとした浅井が寝顔を出していた。階下《した》に寝ているお今のつやつやした髪や、むっちりした白い手なども、幻のように浮んで来た。疲れた頭の皮一重が、時々うとうとと眠りに沈むかと思うと、川の瀬音が苦しい耳元へ、またうるさく寄せて来たり、隣室の男の骨張った姿が、有明けの灯影におそろしく見えたりした。
 そこへ夜番の拍子木の音が、近づいて来た。
 夜のあけるに間もないころに、お増は湯殿の方へ独り出て行った。まだ人影の見えない浴槽《ゆぶね》のなかには、刻々に満ちて来る湯の滴垂《したた》りばかりが耳について、温かい煙が、燈籠《とうろう》の影にもやもやしていた。
 婦人病らしい神さん風の女や、目ざとい婆さんなどが、やがて続いて入って来た。
 お増が湯からあがるころには、外はもうしら
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