、緑の影の顔に涼しく揺れる白樺《しらかば》や沢胡桃《さわぐるみ》などの、木立ちの下を散歩したりしていたお増の顔には、長いあいだ熱鬧《ねっとう》のなかに過された自分の生活が、浅ましく振り顧《かえ》られたり、兄や母親たちと一緒に、田舎に暮しているお柳の身のうえが、哀れまれたりした。
「こんなところに一生暮したら、どんなにいいでしょう。」
 お増は涙含《なみだぐ》んだような目色をして、良人に呟いた。
 子供の時分、二、三度遊びに行ったことのある、叔父の住まっている静かな山寺のさまが、なつかしく目に浮んだりした。
「あなたに棄てられたら、私あすこへ行って、一生暮しますよ。」
 気を紛らすもののない山の生活が、孤独のたよりなさと、生活のはかなさとに、お増の心を引き入れて行った。
「何といったって、自分の家が一番いいのね。」
 お増は、お今などに世話をしてもらった風呂から上ると、ばさばさした浴衣姿《ゆかたすがた》で、縁側の岐阜提灯《ぎふぢょうちん》の灯影に、団扇《うちわ》づかいをしながらせいせいしたような顔をしていた。
 簾《すだれ》を捲《ま》きあげた軒端《のきば》から見える空には、淡い雲の影が遠
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