が日に焦《や》けて、肉も緊《しま》って来たようだったが、健康は優《すぐ》れた方ではなかった。一日青々した山や田圃《たんぼ》を見て暮したり、ぴちぴちする肴《さかな》に、持って来た葡萄酒《ぶどうしゅ》を飲んだり、胸のすがすがするような谿川《たにがわ》の音にあやされて、温泉場《ゆば》の旅館に、十幾年来覚えなかった安らかな夢を結んだりした時には、爛《ただ》れきった霊《たましい》が蘇《よみがえ》ったような気がしたのであったが、濁った東京の空気に還《かえ》された瞬間、生活の疲労が、また重く頭に蔽《お》っ被《かぶ》さって来た。
汽車がなつかしい王子あたりの、煤煙《ばいえん》に黝《くす》んだ夏木立ちの下蔭へ来たころまでも、水の音がまだ耳に着いていたり、山の形が目に消えなかったりした。長いあいだ見た重苦しい自然の姿が、終いに胸をむかむかさせるようであった。
「静《しい》ちゃん。もう東京よ。」
お増は胸をどきつかせながら、心が張り詰めて来るのを感じた。
日暮里《にっぽり》へ来ると、灯影《ひかげ》が人家にちらちら見えだした。昨日まで、瀑《たき》などの滴垂《したた》りおちる巌角《いわかど》にたたずんだり
前へ
次へ
全168ページ中82ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング