よ。」
 お増は男の心が疑われて来た。
「どっちへもいい子になろうたって、それは駄目よ。」
 お増はそうも言ってやりたかったが、別れさしてからの、後の祟《たた》りの恐ろしさがいつも心を鈍らせた。
 浅井の帰って行ったとき、細君は奥で子供と一緒に寝ていたが、女中に何か聞いている良人《おっと》の声がすると、急いで起きあがって、箪笥のうえにある鏡台の前へ立った。そして束髪の鬢《びん》を直したり、急いで顔に白粉を塗ったりしてから出て来た。
「お帰んなさいまし。」
 細君は燥《はしゃ》いだ唇に、ヒステレックな淋しい笑《え》みを浮べた。筋の通った鼻などの上に、斑《まだら》になった白粉の痕《あと》が、浅井の目に物悲しく映った。
「この前、愛子という女が、京都から訪ねて来たときも、こうだった。」
 浅井はすぐその時のことを想い出した。その時は浅井の心は、まだそんなに細君から離れていなかった。細君の影もまだこんなに薄くはなかった。長味のある顔や、すんなりした手足なども、今のように筋張って淋しくはなかった。
 しばらく京都に、法律書生をしていた時分に昵《なじ》んだその女は、旦那取りなどをして、かなりな貯金
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