井の足が一層家の方へ遠ざかった。たまに細君や子供の様子を見に帰っても、一ト晩とそこに落ち着いていられなかった。ヒステレーの嵩《こう》じかかって来た細君は、浅井の顔を見ると、いきなりその胸倉に飛びついたり、瀬戸物を畳に叩《たた》きつけたりした。浅井は蒼い顔をして貴重な書類などを入れた鞄《かばん》をさげて、お増の方へ逃げて来た。
「こら、どうだ。」
浅井は胸紐《むなひも》の乳《ち》を引き断《ちぎ》られた羽織を、そこへ脱ぎ棄てて、がっかりしたように火鉢の前に坐った。
十五
一週間の余も、うっちゃっておいた本宅の方へ、浅井はある日の午後、ふと顔を出してみた。そこへ来ているはずの手紙も見たかったし、絶望的な細君に対する不安や憐愍《れんびん》の情も、少しずつ忿怒《ふんぬ》の消え失せた彼の胸に沁みひろがって来た。長いあいだ貧しい自分を支えてくれた細君の好意や伎倆《はたらき》も考えないわけに行かなかった。
「離縁するほどの悪いことを、私に対してしていないんだから困る。」
浅井は時々思い出したように、当惑の眉を顰めた。そのたびにお増は顔に暗い影がさした。
「あなたは一体気が多いんです
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