室の名を聞くと、お今は間近に迫って来ている晴れがましい婚礼が、頭脳《あたま》にはっきり閃《ひらめ》いたが、その考えはやはり確実ではなかった。いつとも知らず、乗せられて来たその縁談が、支度などに気のそわそわする、その日その日の気分に紛らされて来たことが、一層心苦しかった。その間にも、お今は自分の手で切盛りをする世帯の楽しさや、人妻としての自分の矜《ほこ》りなどを、時々心に描いていた。財産家だという室の家を相続する日を考えるだけでも、お今の不安な心が躍《おど》るようであった。
「ほんとにお前さんは幸《しあわ》せだよ。辛抱さえすれば、十万円という財産家の家を、切り廻して行けるんだもの。」
室を嫌っているとしか考えぬお増のそういって聞かす言《ことば》の意味が、お今にはおかしく思えたり、自分から勧めた縁談に、気のいらいらするようなお増が、蔑視《さげす》まれたりした。
電燈のちらちらするころに、二人は銀座通りをぶらぶら歩いていた。
日の暮れたばかりの街に、人がぞろぞろ出歩いていた。燥《はしゃ》いだ舗石《しきいし》のうえに、下駄や靴の音が騒々しく聞えて、寒い風が陽気な店の明り先に白い砂を吹き立
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