そこを出たころには、もう灯影が町にちらついていた。
退《ひ》ける少し前に、会社へ電話のかかって来た、赤坂の女の方へ、浅井は心を惹かれていた。浅井はその女と、しばらく逢わずにいたのであった。
「どうなすって。いつかけてもあなたはいらっしゃらないのね。」
女は笑いながら、浅井の安否をたずねた。
「私あなたのことで、少しよそから聞いたことがあるのよ。」
「何だ何だ。」と、浅井は少しまごついたような返事をしたが、多分知合いの小林の妾からでも聞いた内輪のことだろうと思った。
幾年ぶりかで、浅井はその晩、お増がもといた家をそっと訪ねて見た。
そのころの女の、もうほとんど一人もいなくなったその家の、広い段梯子《だんばしご》をあがって行く浅井の心には、そこを唯一の遊び場所にした以前の自分の姿が、目に浮んで来た。
「おや、黴《かび》の生えたお客様がいらしたよ。よく道を忘れませんでしたね。」
浅井は廊下で見つかって古い昵《なじ》みの婆さんに、惘《あき》れた顔をしてそこに突っ立たれた。
四十
帰って行った当座、二、三度手紙が来たきり、ふっつり消息の絶えていたお今が、不意に上京して
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