は話をするやうになつた。
「渡瀬さんは何うなさいました。」お父さんはその令嬢が小さい時分、よく世話になつた医者で、私のダンス仲間である渡瀬ドクトルのことを私に聞いた。
渡瀬ドクトルは区内の名士であつたが、ダンスの研究にも熱心であつた。
「渡瀬さん困りますよ。肝臓癌になつちまつて。」私は暫く見舞ひを怠つてゐるドクトルのことを思ひ出した。
ドクトルも最近ここの牀で、マダムと踊つたこともあつたが、善良なこの人達の家庭をよく知つてゐた。彼は医者としてよりも、人として一種ヒイロイツクな人格の持主であつた。最近まであれほど頑健で、時とすると一夜のうちに五十回も立続けに踊つたり、政治批評や恋愛談に興がわくと、夜が白々明けるまで、私の家のストオブの傍で話しに耽つたりしてゐたのに、三月へ入つてから急に顔や手足が鬱金染《うこんぞ》めのやうに真黄色《まつきいろ》になつて来た。私達はストオブのある板敷の部屋や、私の物を書くテイブルの傍などで、屡々豊富なタンゴの新しいステツプを踏んで見せてゐた、肥つた小さい其の姿を、暫らく見ることがなかつた。
娘夫婦に道楽半分教習所をやらせてゐる彼は少し口元の筋肉をふるはせて、眼鏡ごしに私の顔を見詰めてゐた。
ちやうどいつも踊つてくれるマダムは風邪をひいたので、出てゐなかつたし、マスタアの顔も見えなかつたので私達は助手の女の人を相手に、一二回踊つてそこを出ると、下の広小路までぶらぶら歩いて、お茶を呑んで帰つて来た。
「T―さん何うしたか知ら。」私は家政をやつてくれてゐるおばさんに聞いた。
「子供さんがアパアトの廊下に遊んでゐましたから、もうお引移りになつたんでせうよ。」
私は建築中も、一度も見に行かなかつたくらゐで、アパアトの方へ行くのも厭だつたので、その晩は彼を訪ねもしなかつた。
二
間《あひだ》一日おいた晩方、私はおばさんからT―君が病気で臥せてゐることを聞いた。
「何んな風?」私はきいた。
「多分風邪だらうといふんですの。突然九度ばかり熱が出たんださうです。先刻奥さんに伺つたんですけれど。」
五年以来の其の若い細君の噂を、私は子供からも耳にしてゐたし、M―子の仕立物を頼んだりしてゐたので、二三度逢つてゐたおばさんからも、聞いてゐた。二男の友達がダンスを教へたりして、何か恋愛関係でもあつたやうに思はれたが、T―のものになつたのは
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