、それから間もないことらしかつた。兎に角仕立物をしたりして、T―を助けてゐることだけでも、近頃の教養婦人としては、好い傾向だと思つた。
「九度?」私は首をひねつた。
「九度とか四十度とか……ちよつと立話でしたから。」
「医者にかけたか知ら。」
「さあ、そこのところは存じませんけれど。」
「風邪ならいいけれど……。」
 私は他の場合を想像しない訳にいかなかつた。チブスとか肺炎とか……。私はアパアトに十人余りの人達がゐるので、最悪の場合のことも気にしないではゐられなかつた。
「細君に、早速医者に診てもらふやうに言つてくれませんか。」
「さう言ひませう。」
「かういふ時、渡瀬さんが丈夫だといいんだがな。」
「さうですね。」
「しかし浦上さんも、医者としては好いんだ。至急あの人を呼ぶやうに言つて下さい。そして診察の様子を見よう。」
「さう申しておきませう。」
 私は裏へいつて、三階へ上つてみようかと余程さう思つたけれど、逢つたこともない細君に遠慮もあつたし、差当りT―の生活に触れるのも厭だつた。
 切迫した仕事があつたので、その晩はそのままに過ぎた。それにおばさんはルーズな方ぢやないので、医者に診てもらつたに違ひないと思つてゐた。
 明日になつても、私は何か頭脳の底に、不安の影を宿しながらも、その問題にふれる機会もなくて過ぎた。多分感冒だつたので、報告がないのだらうと思つてゐたが、夜、私は外から帰つてくると、急にまた気になりだした。私はおばさんに聞いてみた。
「T―君診てもらつたかしら。」
「ええ、あの時さう申しましたんですが、知らない人に診てもらふのは厭なんですて。それで、牛込の懇意なお医者を呼びにいつたんだけれど、その方も風邪で寝ていらつしやるんで、多分明日あたり診ておもらひになるんでせう。」
「呑気なことを言つてるんだな。何うして浦上さんを呼ばないんだらうな。」
 しかし其の晩はもう遅かつた。容態に変化がなささうなので、私は風邪に片着けて、一時のがれに安心してゐようとした。何か自分流儀な潔癖をもつたT―自身と細君の気分に闖入して行くのも憚られた。

     三
 翌々日の夜、或る会へ出席して、二三氏と銀座でお茶を呑んだりして帰つてくると、T―の病気が大分悪化したことを、おばさんから聞いた。誰かに見せたのかときくと、浦上ドクトルが昼間来て診察したといふのであつた。
 
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