脱けて、足元の暗い段梯子を降りて行った。
二十三
「おや厭だぞえ、誰かと思ったらお庄かい。」
段梯子の下に突っ立っていながら、目の悪い主婦《かみさん》は、降りて来るお庄の姿を見あげて言った。お庄は牡丹の模様のある中形《ちゅうがた》を着て、紅入《べにい》り友禅《ゆうぜん》の帯などを締め、香水の匂いをさせていた。揉揚《もみあ》げの延びた顔にも濃く白粉を塗っていた。
「お前今ごろ何しに来たえ。塩梅《あんばい》でも悪いだか。」
主婦《かみさん》は帳場のところへ来てお辞儀をするお庄のめっきり大人びたような様子を見ながら訊いた。
お庄はそこにあった団扇《うちわ》で、熱《ほて》った顔を煽《あお》ぎながら、畳に片手を突いて膝を崩《くず》していた。
「これがお茶屋に行かずかと言いますがどんなもんでござんすら。」と母親が大分経ってから、おずおず言い出したとき、主婦《かみさん》はお庄の顔を見てニヤリと笑った。
「そろそろいい着物でも着たくなって来たら、そして先アどこだえ。」
「何だか浅草に口があるそうで……。」
主婦は詳しくも聞かなかった。そこへ客が入り込んで来たりなどして、話がそれぎりになった。
お庄は台所の隅の方で、また母親とこそこそ立ち話をしていた。
九時ごろにお庄は、通りの角まで母親に送られて帰って行った。
「それじゃ世話する人にも済まないようだったら、今いる家へ知れないように目見えだけでもして見るだか。」
母親は別れる時こうも言った。お庄は断わるのに造作はなかったが、それぎりにするのも飽き足らなかった。
帰って行くと、奥はもうひっそりしていた。茶の間と若い人たちの寝る次の部屋との間の重い戸も締められて、心張り棒がさされてあった。お鳥は寝衣《ねまき》のまま起きて出て、そっと戸を開けてくれた。
「私あのことどうしようかしら。」
お庄はお鳥の寝所《ねどこ》の傍にべッたり坐って、額を抑えながら深い溜息を吐《つ》いた。
お鳥はだらしのない風をして、細い煙管《きせる》に煙草を詰めると、マッチの火を摺《す》りつけて、すぱすぱ喫《の》みはじめた。
「どうでもあんたの好きなようにすればいいじゃありませんか。あんまりお勧めしても悪いわ。」お鳥はお庄の顔をマジマジ見ていた。
「そこは真実《ほんとう》に堅い家なの。」
「それア堅い家でさね。だけど、どうせ客商売をしてるんですから、堅いと言ったって、ここいらの堅いとはまた違ってますのさ。」お鳥は鼻にかかった声で言って澄ましていた。
お鳥は寝所《ねどこ》へ入ってからも、自分の知っているそういう家の風をいろいろ話して聞かした。
二、三日経ってから、お鳥が浅草の叔母の方へ帰って行ったころには、店の方からよく働く女が一人ここへ廻されていた。方々ですれて来たお鳥の使いにくいことが、その前から奥へもよく解っていた。店の荷造りをする男と、一緒に仕舞湯へ入ってべちゃくちゃしながら、肌の綺麗な男の背を流しなどしているところを、台所働きに見られて、言いつけられた。内儀《かみ》さんはお鳥を呼びつけて、しねしね叱言《こごと》を言った。
「もう厭になっちゃった。どうせこんなところは腰かけなんだから、どうだってかまやしない。」
お鳥は奥から出て来ると、太《ふて》くさったような口を利いて、茶の間にごろごろしていた。
お鳥は出て行くとき、荷部屋へ入って、お庄としばらく話し込んでいた。それから借りた金なども綺麗に返して、包みを一つ抱えて裏から脱けて行った。
後で多勢でこの女の噂が始まった。若い男たちは、お庄らの気着かぬことまで見ていた。お庄も一緒になって、時々切なげな笑い方をした。
二十四
お庄の行った家は、お鳥の言うほど洒落《しゃれ》てもいなかった。
お庄は家からかかった体裁に、お鳥から電話をかけてもらって、ある晩方日本橋の家を脱けて出た。その日は一日|気色《きしょく》の悪い日で、店から来た束髪の女ともあまり口を利かなかった。お庄には若い夫婦の傍にいつけて、理窟っぽくなっているこの女の幅を利《き》かすほど、煮物や汁加減《つゆかげん》が巧いとは思えなかった。学校出の御新造を笠に被《き》て、お上品ぶるのも厭であった。
その晩は、白地が目に立つほど涼しかった。お庄は母親に頼んであるネルの縫直しがまだ出来ていなかったし、袷羽織《あわせばおり》の用意もなかったので、洗濯してあった、裄丈《ゆきたけ》の短い絣《かすり》の方を着て出かけて行った。
馬車の中は、水のような風がすいすい吹き通った。お庄は軽く胸をそそられるようであった。
お庄は賑やかな池《いけ》の畔《はた》から公園の裾《すそ》の方へ出ると、やがて家並みのごちゃごちゃした狭い通りへ入った。氷屋の簾《すだれ》、床屋の姿見、食物屋《たべものや》の窓の色硝子、幾個《いくつ》となく並んだ神燈の蔭からは、媚《なまめ》かしい女の姿などが見えて、湿った暗い砂利の道を、人や俥《くるま》が忙しく往来した。ここはお庄の目にも昵《なじ》みのないところでもなかった。
お鳥のいる家はじきに知れた。大きい木戸から作り庭の燈籠《とうろう》の灯影や、橋がかりになった離室《はなれ》の見透《みすか》されるような家は二軒とはなかった。お庄は店頭《みせさき》の軒下に据えつけられた高い用水桶《ようすいおけ》の片蔭から中を覗《のぞ》いて、その前を往《い》ったり来たりしていたが、するうち下足番の若い衆に頼んで、お鳥に外まで出てもらった。やがてお鳥は下駄を突っかけて料理場の脇《わき》の方から出て来た。
その家は仲見世《なかみせ》寄りの静かな町にあった。お鳥は花屋敷前の暗い木立ちのなかを脱けて、露店《ほしみせ》の出ている通りを突っ切ると、やがて浅黄色の旗の出ている、板塀囲いの小体《こてい》な家の前まで来てお庄を振り顧《かえ》った。お庄は片側の方へ寄って、遠くから入口の方を透《すか》し視《み》していた。
裏から入って行くと、勝手口は電気が薄暗かった。内もひっそりしていて、菰被《こもかぶ》りの据わった帳場の方の次の狭い部屋には、懈《だる》そうに坐っている痩せた女の櫛巻《くしま》き姿が見えた。上に熊手《くまで》のかかった帳場に、でッぷりした肌脱ぎの老爺《おやじ》が、立てた膝を両手で抱えて、眠そうに倚《よ》りかかっていた。
お鳥は女中を一人片蔭へ呼び出すと、暗いところで立ち話をしはじめた。そうしてから外に立っているお庄を呼び込んだ。
「じゃこの人よ。どうぞよろしくお願い申します。」お鳥は口軽にお鳥を紹介《ひきあわ》すと、やがて帰って行った。
女中はお庄を櫛巻きの女の方へつれて行った。女は落ち窪んだヒステレー性の力のない目でお庄をじろじろ眺めたが、言うことはお庄はよく聴き取れなかった。
帳場前の廊下へ出ると、そこから薄暗い硝子燈籠の点《とも》れた、だだッ広い庭が、お庄の目にも安ッぽく見られた。ちぐはぐのような小間《こま》のたくさんある家建《やだ》ちも、普請が粗雑《がさつ》であった。お庄はビールやサイダーの広告のかかった、取っ着きの広い座敷へ連れられて行くと、そこに商人風の客が一ト組、じわじわ煮立つ鶏鍋《とりなべ》を真中に置いて、酒を飲んでいるのが目についた。お庄は入口の方に坐って、しばらくぼんやりしていた。
「あんたも来て手伝って頂戴。」
女は骨盤の押し開いたような腰つきをして、片隅に散らかったものを忙しそうに取り纏《まと》めていた。
お庄は気爽《きさく》に返事をして、急いで傍へ寄って行った。
その晩から、お庄は衆《みんな》に昵《なじ》んだ。
二十五
正雄がある朝十時ごろに、一《いち》の家《や》を訪ねて行くと、お庄は半襟《はんえり》のかかった双子《ふたこ》の薄綿入れなどを着込んで、縁側へ幾個《いくつ》も真鍮《しんちゅう》の火鉢を持ち出して灰を振《ふる》っていた。お庄が身元引受人に湯島の主婦《あるじ》を頼みに行ったとき、主婦はニヤニヤ笑って、
「お前そんなことをしてもいいだかい。自分の娘のことじゃないから、私はまア何とも言わないが、長くいるようじゃダメだぞえ。」と、念を押しながら判を捺《お》してくれた。
お庄は二日ばかりの目見えで、毎日の仕事もあらまし解って来た。家の様子や客の風も大抵|呑《の》み込めた。どこのどんな家のものだか知れないような女連の中に交じって立ち働くのも厭なようで、自分にもそれほど気が進んでもいなかったが、日本橋の方へ帰って、気むずかしい老人夫婦ばかりの、陰気な奥の方を勤めるのも張合いがなかった。
「今いる家は、体が楽でも気が塞《つま》っていけないそうで……。」と、母親も傍から口を添えた。
お庄はここへ書附けを入れてから、もう二タ月にもなった。
お庄は裏口の戸の外に待っている正雄の姿を見ると、顔を赧《あか》くして傍へ寄って行ったが、目に涙がにじんだ。明けると十四になる正雄の様子は、しばらくのまにめっきり下町風になっていた。頭髪《かみ》を短く刈り込んだ顔も明るく、縞《しま》の綿入れに角帯をしめた体つきものんびりしていた。
「何か用があったの。」とお庄は何か語りそうな弟の顔を見た。
「いいえ。」正雄は頭《かぶり》を掉《ふ》った。
「どうしてここにいることが解ったの。阿母《おっか》さんに聞いて来たの。」
それぎりで、二人は話すことも、想い出せないような風で立っていた。
しばらくたつと、お庄は顔や髪などを直して、出直して来た。大きい素足に後歯《あとば》の下駄をはいて、意気がったような長い縞の前垂を蹴るようにして蓮葉に歩き出すと、やがて芝居や見世物のある通りへ弟を連れ出して来た。
見世物場はまだそれほど雑踏していなかった。帽子も冠《かぶ》らないで、ピンヘットを耳のところに挟んだような、目容《めつき》のこわらしい男や、黒足袋をはいて襷がけしたような女の往来《ゆきき》している中に、子供の手を引いた夫婦連れや、白い巾《きれ》を頚《くび》に巻いた女と一緒に歩いている、金縁眼鏡《きんぶちめがね》の男の姿などが、ちらほら目についた。二人はその間をぶらぶらと歩いていたが、弟はどこを見せても厭なような顔ばかりしていて、張合いがなかった。お庄は見世物小屋の木戸口へ行って、帯のなかから巾着《きんちゃく》を取り出しながら、弟を呼び込もうとしたが、弟はやはり寄って来なかった。
「何か食べる方がいいの。」お庄は橋の手摺りに倚《よ》りかかって、あっちを向いている弟の傍へ寄り添いながら訊いたが、弟はやはり厭がった。
「じゃ、何か欲しいものがあるならそうお言いなさい。姉さんお鳥目《あし》があるのよ。」
「ううん、お鳥目《あし》なんか使っちゃいけない。」弟はニヤニヤ笑った。
二人は橋を渡って木立ちの見える方へ入って行った。弟は姉と一緒に歩くのが厭なような風をして、先へずんずん歩いた。
別れる時、お庄は片蔭へ寄って、巾着から銀貨をあらまし取り出して渡した。
「姉さんも早くあの家を出るようにしておくれ。」と、弟の言ったのを時々思い出しながら、お庄は裏通りをすごすごと帰って行った。
二十六
帰って行くと、内儀《かみ》さんが帳場の方に頑張《がんば》っていた。
内儀さんは上州辺の女で、田舎で芸妓《げいしゃ》をしていた折に、東京から出張っていた土木の請負師に連れ出されて、こっちへ来てから深川の方に囲われていた。ここの老爺《おやじ》と一緒になったのは、その男にうっちゃられてから、浅草辺をまごついていた折であった。前の内儀さんを逐《お》い出すまでには、この女もいくらかの金をかけて引っ張って来た老爺の手から、幾度となく逃げて行った。今茲《ことし》十三になる前妻の女の子は、お庄がここに来ることになってから、間もなく鳥越《とりごえ》にいる叔母の方へ預けられた。この継子《ままこ》を、内儀さんがその父親の前で打《ぶ》ったり毒突いたりしても、爺さんは見て見ない振りをしていた。
「それアひどいことをするのよ。」と、女中たちは蔭で顔を顰《しか》め合った。
「あんなにいび
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