の顔へ、物を取って投げ着けなどした。得がたい瀬戸物が、柱に当って砕けたり、大事な持物が、庭の隅へ投《ほう》り出されたりした。
お庄らは、この老人の給仕をしているあいだに、袖で顔を掩《おお》うて、勝手の方へ逃げ出して来ることがしばしばあった。内儀さんに就いていいのか、老人に就いていいのか、解らないようなこともたびたびであった。
夜は若いものが店の方から二、三人来て泊った。酒好きな車夫も来て、台所の方によくごろ寝をしていた。若い人たちは時間が来ると入り込んで来て、湯に入ってから、茶の間の次で雑誌を見たり、小説を読んだりした。湯に入っていると牡丹色《ぼたんいろ》の仕扱《しごき》を、手の届かぬところへ隠されなどして、お庄は帯取り裸のまま電燈の下に縮まっていた。
二十
こっちの仲働きが向島のと入れ替った。そのころからお庄の心もいくらか自由になった。向島の方のお鳥という女が、何か落ち度があって暇を出されるところを、慈悲のある内儀《かみ》さんが、入れ替らせて本宅で使うことにした。
「お前がしばらく行って、あすこを取り締っておくんなさいよ。お絹には若いものはとても使いきれないから。」
こっちの仲働きは内儀さんからこう言い渡されたとき、奥から下って来ると厭な顔をして、黙って火鉢の傍で莨ばかり喫《ふか》していた。顔に蕎麦滓《そばかす》の多い女で、一度は亭主を持ったこともあるという話であった。腹には苦労もありそうで、絶えず奥へ気を配り、うっかりしているようなことはなかった。
お庄は目見えの時、内儀さんからこの女の手に渡されて、二、三日いろいろのことを教わった。お茶の運び工合から蒲団の直しよう、煙草盆の火の埋《い》け方、取次ぎのしかた、光沢拭巾《つやぶきん》のかけ方などを、少しシャがれたような声で舌速《したばや》に言って聴かせた。お庄が笑い出すと、女はマジマジその顔を瞶《みつ》めて、「いやだよ、お前さんは、真面目に聞かないから。」と、煙管《きせる》をポンと敲《たた》いた。お庄はこの「お前さん」などと言われるのが初めのうち強《きつ》く耳に障《さわ》って、どうしても素直に返辞をする気になれなかった。そんな時にお庄は、低い鼻のあたりに皺《しわ》を寄せてとめどなく笑った。一緒に膳に向う時、この女の汚らしい口容《くちつき》をみるのが厭な気持で、白い腰巻きをひらひらさせてそこらを飛び歩いたり、食べ物を塩梅《あんばい》したりする様子も、どうかすると気にかかってならなかった。お庄はそういう時にも、顔に袂を当てがって笑う癖があった。
一緒に湯に入ると、女はお庄の肉着きのいい体を眺めて、「わたしは一度もお庄ちゃんのように肥《ふと》ったことがなくて済んだんだよ。」と、うらやましがった。
お庄はまた、骨組みの繊細《きゃしゃ》なこの女の姿だけはいいと思って眺めた。髪の癖のないのも取り柄のように思えた。
「まアこちらのお宅に辛抱してごらんなさい。こちらもあまりパッパとする方じゃないけれど、内儀《おかみ》さんが目をかけて使って下さるからね。どこへ行ったって、そういい家というものはないものですよ。」と、女はお庄がやや昵《なじ》んだ時分に、寝所でしみじみ言って聴かせた。
お庄はそうして奉公気じみたことを考えるのが、厭なようであった。
女が包みと行李とを蹴込《けこ》みに積んで、ある晩方向島の方へ送られて行くと、間もなくお鳥がやって来た。
お鳥は躯《からだ》の小さい、顔の割りに年を喰った女であったが、一ト目見た時から、どこか気がおけなそうに思えた。
お鳥は来た晩から、洗い浚《ざら》い身の上ばなしを始めた。向島の妾宅のこと、これまでに渉《わた》りあるいた家のことなども、明けッ放しに話した。
お庄は時々この女に、用事をいいつけるようになった。女は「そう」「そう」と言って、小捷《こばしこ》く働いたが、そそくさと一ト働きすると、じきに懈《だる》そうな風をしてぺッたり坐って、円《まる》い目をパチパチさせながら、いつまでも話し込んだ。この女が平気で弁《しゃべ》ることが、終《しま》いにはおそろしくなるようなことがあった。
お鳥は冷《ひや》っこい台所の板敷きに、脹《ふく》ら脛《はぎ》のだぶだぶした脚を投げ出して、また浅草で関係していた情人《おとこ》のことを言いだした。
「堅気の家なんか真実《ほんとう》につまらない。奉公するならお茶屋よ。」
お鳥は溜息をついて、深い目色をした。
お庄も足にべとつく着物を捲《まく》しあげて、戸棚に凭《もた》れて、うっとりしていた。奥も台所の方も、ひっそりしていた。
二十一
水天宮の晩に、お鳥は奥の方へは下谷《したや》の叔母の家に行くと言って、お庄に下駄と小遣いとを借りて、裏口の方から出て行った。この女は来た時から何も持っていなかった。押入れのなかに転《ころ》がした風呂敷のなかに、寝衣《ねまき》と着換えが二、三枚に、白粉の壜《びん》があったきりで、昼間外へ出る時は傘までお庄のをさして行くくらいであったが、金が一銭もなくても買食いだけはせずにいられなかった。お鳥と一緒にいると、お庄は自分の心までが爛《ただ》れて行くように思えた。
台所ばかりを働いている田舎丸出しの越後《えちご》女は、よくお鳥に拭巾と雑巾とを混合《ごっちゃ》にされたり、奥からの洗濯物のなかに汚い物のついた腰巻きをつくねておかれたりするので、ぶつぶつ小言を言った。
「お前が来てから、何だかそこいらが汚くなったようだよ。」と、内儀《かみ》さんは時々出て来てはそこいらに目を配った。
「私口を捜しに行くんですから、奥へは黙っていて下さいね。どこかいいところがあったら、あなたも行かないこと。」お鳥は出て行く時お庄にも勧めた。
お庄はただ笑っていたが、この女の口を聞いていると、そうした方が、何だか安易なような気もしていた。貰いのたくさんあるようなところなら、自分の手一つで、母親一人くらいは養って行けそうにも思えた。
お庄は落ち着かないような心持で、勝手口の側《わき》の鉄の棒の嵌《はま》った出窓に凭《もた》れて路次のうちを眺めていた。するうちに外はだんだん暗くなって来た。一日曇っていた空もとうとう雨になりそうで、冷たい風は向うの家の埃《ほこり》ふかい廂間《ひさしあい》から動いて来た。
お庄はじれったいような体を、窓から引っ込めて行くと、自分たちの荷物や、この家の我楽多《がらくた》の物置になっている薄暗い部屋へ入って、隅の方に出してある鏡立ての前にしゃがんだ。ふと呼鈴《よびりん》がけたたましく耳に響いた。茶の間へ出て行くと、今店の方から来たばかりの小僧が一人、奥へ返辞もしないで、明るい電燈の下で、寝転んで新聞を読んでいた。お爨《さん》は台所で、夕飯の後始末をしていた。
「お前さんちょっと行ってくれたってもいいじゃないの。」
お庄は小僧に言いかけて、手で臀《しり》のあたりを撫《な》でながら、奥の方へ行った。奥は四、五日|甲高《かんだか》な老人の声も聞えなかった。内儀《かみ》さんは、時々二階へあがって、そこで一人かけ離れて冬物を縫っているお針の傍へ行ったり、物置の方へ物を捜しに行ったりして、日を暮した。お鳥に聞かされるいろいろの話に引き寄せられていたお庄は、しばらくこの主人とも疎《うと》くなったような気がしていた。
内儀さんは樟脳《しょうのう》の匂いの染《し》み込んだような軟かいほどきものを一枚出して、お庄に渡した。
「お前、旦那《だんな》がお留守で、あんまり閑《ひま》なようなら、ちっとこんなものでもほどいておくれ。」
お庄はそれを持って引き退《さが》って来たが、今急に手を着ける気もしなかった。
水天宮へ出かけて行った店の若い人たちが、雨に降られてどかどか[#「どかどか」に傍点]と帰って来た時分には、お庄もお鳥の帰りが待ち遠しいような気がして来た。そして明りの下でほどきものをしながら、心にいろいろのことを描いていた。
お鳥の帰ったのは、その翌朝であった。
「どうも済みません。」
お鳥は疲れたような顔をして、紅梅焼きを一ト袋、袂の中から出すと、それを棚の上において、不安らしくお庄の顔を見た。お庄はまだ目蓋《まぶた》の脹《は》れぼったいような顔をして、寝道具をしまった迹《あと》を掃いていた。お鳥は急いで襷《たすき》をかけて、次の間へハタキをかけ始めた。
二十二
お庄は久しぶりで湯島の方へ帰って行った。もといた近所を通って行くのはあまりいい気持でもなかったし、母親の顔を見るのも厭なような気がして、お庄は日蔭もののように道の片側を歩いて行った。昨夜《ゆうべ》お鳥のところへこの間の話の人にいい口があると言って、浅草の方から葉書で知らせて来た。先方は食物屋《たべものや》で、家は小さいけれど、客種のいいということは前からもお鳥に聞かされていた。それに忙《せわ》しいには忙しいが芸者なども上って、収入《みいり》も多いということであった。体が大きいから、年などはどうにもごまかせると言って、お鳥は女文字のその葉書を見せた。お庄は何だか担《かつ》がれでもするようで、こわかったが、行って見たいような心がしきりに動いた。お庄はもう半分、ここにいる気がしなかった。
下宿へ入って行くと、下の方には誰もいなかったが、見馴れぬ女中が、台所の方から顔を出して胡散《うさん》そうにお庄を眺めた。そこらはもう薄暗くなっていた。
母親は二階の空間で、物干しから取り込んだ蒲団の始末をしていた。窓際に差し出ている碧桐《あおぎり》の葉が黄色く蝕《むしば》んで、庭続きの崖《がけ》の方の木立ちに蜩《かなかな》が啼《な》いていた。そこらが古くさく汚く見えた。お庄は自分の古巣へ落ち着いたような心持で、低い窓に腰かけていた。
「阿母《おっか》さん、私お茶屋などへ行っちゃいけなくて。」お庄は訊《き》いた。
母親は畳んでいた重い四布《よの》蒲|団《とん》をそこへ積みあげると、こッちを振り顧《かえ》って、以前より一層肉のついたお庄の顔を眺めた。
「お茶屋ってどんなとこだか知らないが、堅気のものはまアあんまり行くところじゃあるまい。」
「ちゃんとした家なら、行ったっていいじゃないの。」
「さア、どんなものだかね、私《わし》らには一向解りもしないけれど……どこかそんなところでもあるだか。」母親は立っていながら言った。
お庄はこの母親に言って聞かせても解らないような気がしてもどかしかった。
「お前そうして、そこへ行くと言うだかい。」母親はマジマジ娘の顔を見た。
「どうだか解りゃしない。行って見ないかと言う人があるの。」お庄は外の方を見ていながら、気疎《けうと》いような返辞をした。
「誰からそんなことを言われたか知らないけれど、まアあんまり人の話にゃ乗らない方がいい。もしか間違いでもあって、後で親類に話の出来ないようなことでもあっちゃ済まないで。」と、母親は暗いような顔にニヤニヤ笑って、
「その人はやっぱりあすこへ出入りする人でもあるだか。」
「一緒に働いている人さ。その人も近いうちにあすこを出るでしょうと思うの。」
「じゃ、その人はお前より年とった人ずら。自分が出るでお前も一緒に引っ張って行かずかという気でもあるら。」
母親は蒲団の前に坐り込んで芥《ごみ》を捻《ひね》りながら、深く思い入っているようであった。
夕暮の色が、横向きに腰かけているお庄の顔にもかかって来た。
「よくせき困ってくれば、時と場合で女郎さえする人もあるもんだで、身を落す日になれア、何でもできるけれど、家じゃ田舎にちゃんとした親類もあるこんだもんだで、あの人たちに東京で何していると聞かれて、返辞の出来ないようなむやみなことも出来ないといったようなもんせえ。あすこへ世話してくれた人にだって、そんなことを言い出せた義理じゃないしするもんだで……。」
お庄は、重苦しい母親の調子が、息ぜわしいようであった。
やがて下から声かけられて、母親が板戸を締めはじめると、お庄もむっ[#「むっ」に傍点]と黴《かび》くさい部屋から
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