るくらいなら、余所《よそ》へくれた方がいいわ。」
「あの年をしていて、わが子よりは内儀《かみ》さんの方が可愛いなんて、お爺《じい》さんも随分だわね。」
 蒼《あお》い顔をして、女中と一緒に、隅の方で飯を食っている、その女の子の様子を見ると、お庄も厭な気がした。「それでもお前たち子供が可愛そうだと思ったもんで……。」と、いつか母親の言った語《ことば》を思い出された。
「外聞が悪いから、いい加減にしときなよ。」と、爺さんは内儀《かみ》さんのいびり方が劇《はげ》しくなると、眠いような細い目容《めつき》をして、重い体をのそのそと表へ出て行った。そうでもしなければ、彼女の病気がどこまで募るか解らなかった。内儀さんは、請負師の妾《めかけ》をしているころから、劇しいヒステレーに陥っていたらしく思われた。
「おいおい、家は忙《せわ》しいんだよ、朝ッぱらからどこを遊んであるくんだ。」
 隙《すき》のない目で、上って来るお庄の顔を見て、内儀さんは怒鳴った。その顔にはいつものように酒の気《け》もするようであった。どこかやんばらなようなところのある内儀さんは、継子《ままこ》がいなくなってからは、時々劇しくお爺さんに喰ってかかった。喧嘩《けんか》をすると、じきに菰冠《こもかぶ》りの呑み口を抜いて、コップで冷酒《ひやざけ》をも呷《あお》った。
「どうも済みません。」
 お庄は笑いながら言って、奥の方へ入って行った。
 座敷の方では、赤いメリンスの腰捲きを出して、まだ雑巾がけをしている女もあった。並べた火鉢の側に寄って、昨夜《ゆうべ》仲店で買って来た櫛《くし》や簪《かんざし》の値の当てッこをしている連中もあった。
「あれお前さんの弟……。」一人はお庄にこう言って訊きかけた。
「え、そう」お庄は頷《うなず》》いた。
「道理で似ていると思った。」
「同胞《きょうだい》だって似るものと決まってやしないわ。」
「当然《あたりまえ》さ。親子だって似ないものもあるじゃないか。」
 てんでんに下らなく笑って、顔の話などをしはじめた。お庄は形の悪い鼻を気にしながら、指頭《ゆびさき》が時々その方へ行った。奥の小間《こま》では、お庄が出る前から飲みはじめて、後を引いている組もあった。都々逸《どどいつ》の声などがそっちから聞えて、うるさく手が鳴った。誰かが、「ちょッ」と舌うちして、鼻唄《はなうた》を謳《うた》いながら起って行った。お庄も寒い外の風に吹かれながら鼻頭《はながしら》を赤くして上って来た客に声かけて、垢染《あかじ》みた蒲団などを持ち出して行った。
 夜お庄は、弟から端書《はがき》を受け取った。端書には、読めないような生意気なことが、拙《まず》い筆で書いてあったが、茶屋奉公などしている姉を怒っている弟の心持は、お庄の胸に深く感ぜられた。

     二十七

 正月の十五日過ぎに、お庄は肩にショールをかけ、銀杏返《いちょうがえ》しに白い鬢掻《びんか》きなどをさして奥山で撮《と》った手札形の自分の写真と、主婦《あるじ》や母親、女中に半襟や櫛のようなものを買って、湯島の方へ訪ねて来た。そのころ湯島ではもう大根畠《だいこんばたけ》の方の下宿屋を引き払っていた。田舎で潰《つぶ》れた家を興して、医師の玄関を張っている菊太郎から、倹約すれば弟二人を学校へ出して行けるだけの金が、月々送られることになってから、主婦《あるじ》は下宿を売り払って、その金の幾分で路次裏にちょっとした二階屋を買って、そこへ引っ越していた。二階にはごく気のおけない人を一人二人置いてあった。
 主婦のお元は、お庄の風を見てあまり悦《よろこ》ばなかった。
 お庄が半襟などを取り出して、「阿母《おっか》さんがいろいろお世話になりまして……。」と、ひねた挨拶《あいさつ》ぶりをすると、婆さんは紙に包んだその品を見もしないで、苦い顔をしていた。
「お前は、そしてその家で何をしているだい。やっぱり出てお客のお酌《しゃく》でもするだかえ。」
「え、時々……。」お庄はニヤニヤしながら、「やっぱりね、それをしないと怒る人があるものですから。」
「そんなことをしてはいけないぞえ。ろくなお客も上るまいに。金でもちっと溜ったと言うだか。」お庄は笑っていた。
「お安さあのところへ時々送るという話だったじゃないかえ。」
「それはそうなんですけれど、ああしておれば何だ彼だと言ってお小遣いもいりますから……。」
「それじゃお前、初めの話と違うぞえ、そのくらいなら日本橋にいた方がまだしも優《まし》だ。続いて今までおればよかったに。」
 お庄もそんなような気がしていないこともなかった。お酉《とり》さま前後から春へかけて、お庄は随分働かされた。一日立詰めで、夜も一時二時を過ぎなければ、火を落さないようなこともあった。脚も手も憊《くたび》れきった体を、硬い蒲団に横たえると、すぐにぐッすり寝込んだ。朝起きるとまた同じように、重い体を動かさなければならなかった。お庄は婆さんの前に坐っていると、膝やお尻の、血肉《ちにく》が醜く肥ったことが情ないようであった。
「それにあすこいらはおそろしい風儀がよくないと言うじゃないかい。お前もそんなことをしていれア、一生頭があがらないぞえ。」
 お庄の耳には、根強いような婆さんの声が、びしびし響いた。お庄は聞いて聞かないような振りをして、やっぱり笑っていた。そして時々涙のにじみ出る目角《めかど》を、指頭《ゆびさき》で拭《ぬぐ》っていたが、終《しま》いにそこを立って暗い段梯子の方へ行った。お庄は婆さんに何か言われるたんびに、下宿の二階で見たことなどがじきに頭に浮んだ。鬢の薄い、唇の黒赭《くろあか》いようなその顔が、見ていられなくなった。
「兄さんはお二階……。」お庄は落ち着かないような調子で訊いた。
 二階では、取っ着きの明るい部屋で、糺《ただす》が褞袍《どてら》を着込んで、机に向って本を見ていた。
「御免なさい。」と言って、お庄はそこへ上り込んで行った。
「誰か来ているのかと思ったらお庄か。」従兄《いとこ》はこっちを向いて、長い煙管《きせる》を取り上げた。
 お庄は挨拶をすますと、窓のところへ寄って来て、障子を開けて外を覗《のぞ》いた。そこはすぐ女学校の教室になっていた。曇ったガラス窓からは、でこでこした束髪頭が幾個《いくつ》も見えた。お庄は珍しそうに覗き込んでいた。
「どうしたい。」従兄はお庄の風に目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》っている。
「今下で、お婆さんにさんざん油を絞られましたよ。」
「お前のいるところはどこだえ。」
 お庄はそこへ坐って、煙管を取りあげた。
「何だ、お庄ちゃんか。」と言って、繁三も次の室《ま》から顔を出した。

     二十八

 日の暮れ方まで、お庄はここに遊んでいた。二階の連中と出しっこをして、菓子も水ものを買って、それを食べながら、花を引いたり、燥《はしゃ》いだ調子で話をしたりするうちに、夜|寄席《よせ》へ行く約束などが出来た。
「そんなことをしていてもいいかえ。築地の小崎もお前のことを心配していたで、今夜にも行って見た方がよくはないかえ。お前の風を見て、小崎が何と言うだか。」
 婆さんは、飯も食わずにそわそわしているお庄に小言を言った。もうランプが点《とも》れていた。お庄は隅の方へ鏡を取り出して大人ぶった様子をして髪の形などを直していた。
「今日でなくとも、明日という日もありますから……。」と、お庄は安火《あんか》に入って、こっちを見ている糺の苦い顔を見ながら言った。
「余所《よそ》へ出て働くというのは辛いものだろう。」と、糺は傍から口を利いた。
「どうせそれは楽じゃないわ。」と、お庄も鏡に映る自分の髪の形に見入りながら、気なしに言った。
「今初めてそんなことが解っただか。お前が独りで口を拵えて行ったじゃないかえ。」
 お庄も糺も黙っていた。
「さあ、若いものは遅くなると危いで、化粧《つくり》などはいい加減にして、早くおいでと言うに。」と、婆さんはやるせなく急《せ》き立てた。
 築地の方へは、この家が下宿を引き払った時分から、母親が引き取られていた。弟も相変らずいた。そこへ行くには、叔母にもちゃんとした挨拶をしなければならず、自分の身の上の相談を持ち込むのも厭であった。
「それじゃ行ったらいいだろう。そして小崎の叔父に話をして、浅草なぞは早く足を洗った方がよさそうだぜ。」糺も興のない顔をして言った。
「え、それじゃ行きます。」お庄は急に髪の道具をしまいかけた。
「どうせお前たちを見るのは、一番縁の近い小崎のほかにアないもんだで、行ったらよく話して見るがいい。あすこには子供がないで、そのくらいのことをするが当然《あたりまえ》だ。」
 するうち古茶箪笥の上の方にかかっている時計が五時を打った。お庄は何だか気が進まなかった。寄席へも行きそびれたような気がして、心がいらいらした。糺に話したいことも胸につかえているようであった。お庄思いの糺には、家もなくて方々まごついているお庄の心持が、一番解っているように思えた。
 お庄は帯を締め直すと、二階に忘れて来た手※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》を捜しに上った。二階には寒い夕方の風が立てつけの悪い障子をがたがた鳴らして、そこらの壁や机の上にまだ薄明りがさしていた。お庄はその薄暗いなかに坐って、しばらく考え込んでいた。するうちにそっと起ちあがって、段梯子を降りた。
 お庄はやがて、堅く凍《い》てついた溝板《どぶいた》に、駒下駄《こまげた》の歯を鳴らしながら、元気よく路次を出て行った。外は北風が劇しく吹きつけていた。十五日過ぎの通りには人の往来《ゆきき》も少く、両側の店も淋しかった。砂埃に吹き曝《さら》されている、薄暗い寄席の看板などが目についた。
 お庄はまだ思い断《き》って、独りで築地へ行く気がしなかった。それよりは、浅草の方へ帰って行った方が、まだしも気楽なように思えた。そして時々立ち停って思案していた。
 浅草へ帰ったのは、八時ごろであった。お庄は馬車を降りると、何とはなし仲居の方へ入って行ったが、しばらくそこらを彷徨《ぶらつ》いているうちに、四下《あたり》がだんだん更《ふ》けて来た。
 お庄はその晩大道で、身の上判断などしてもらって、それからとぼとぼと家の方へ帰って行った。身の上判断は思っているほど悪い方でもなかった。

     二十九

 築地へ行くと言って出かけたきり行かなかったことが後で知れてから、お庄は糺に電話できびしく小言を喰った。電話のかかって来た時、客が立て込んでいて、お庄は落ち着いて先の話を聴くことも出来なかったが、衆《みんな》が意《おも》いのほか心配していることと、叔父や湯島のお婆さんの怒っていることだけは受け取れた。お庄は何だか軽佻《かるはずみ》なことをしたように思って、一日そのことが気にかかった。
「それじゃ二、三日の中にきっと行くね。たびたびそんなことをすると、終《しま》いに誰もかまってくれなくなってしまうからね。」と、糺が念を押した語《ことば》も、お庄の頭脳《あたま》をいらいらさせた。お庄は客のいない部屋の壁のところに倚《よ》りかかって、腹立たしいような心持で、じっと考え込んでいた。築地へはこれきり行かないことにしようかとも思った。一生誰の目にもかからないようなところへ行ってしまいたようにも思った。暮に田舎へ流れて行ったお鳥のことなどが想い出された。
「もし工合がいいようだったら知らしてあげるから、ことによったらお前さんも来るといいわ。少しは前借《ぜんしゃく》も出来ようというんだからいいじゃないか。」
 立つ少し前に、奥山で逢った時、お鳥はこう言って、その土地のことを話して聞かせた。それは茨城《いばらき》の方で、以前関係のあった男が、そこで鰻屋《うなぎや》の板前をしていることも打ち明けた。
「お前さんなんざまだ幼《うぶ》だから、行けばきっと流行《はや》りますよ。」お鳥はこうも言った。
 お庄はおそろしいような心持で聴き流していたが、時々そうした暗い方へ向いて行
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