かけて、袂から甘納豆《あまなっとう》を撮《つま》んではそっと食べていると、池の向うの柳の蔭に人影が夢のように動いて、気疎《けうと》い楽隊や囃《はやし》の音、騒々しい銅鑼《どら》のようなものの響きが、重い濁った空気を伝わって来た。するうちに、澱《よど》んだような碧《あお》い水の周《まわ》りに映る灯《ひ》の影が見え出して、木立ちのなかには夕暮れの色が漂った。
女は、帰って来たお庄の顔を見ると、
「この人はどうしたって家に昵《なじ》まないんだよ。」と言って笑った。店にはこのごろ出来た、女の新しい亭主も坐って新聞を見ていた。亭主は女よりは七、八つも年が下で、どこか薄ンのろのような様子をしていた。この男は、いつどこから来たともなく、ここの店頭《みせさき》に坐って、亭主ともつかず傭《やと》い人ともつかず、商いの手伝いなどすることになった。お庄は長いその顔がいつも弛《たる》んだようで、口の利き方にも締りのないこの男が傍にいると、肉がむず痒くなるほど厭であった。男はお庄ちゃんお庄ちゃんと言って、なめつくような優しい声で狎《な》れ狎《な》れしく呼びかけた。
男は晩方になると近所の洗湯へ入って額や鼻頭《はなさき》を光らせて帰って来たが、夜は寄席《よせ》入りをしたり、公園の矢場へ入って、楊弓《ようきゅう》を引いたりした。夜遊びに耽《ふけ》った朝はいつまでも寝ていて、内儀《かみ》さんにぶつぶつ小言を言われたが、夫婦で寝坊をしていることもめずらしくなかった。
お庄は寝かされている狭い二階から起きて出て来ると、時々独りで台所の戸を開け、水を汲《く》んで来て、釜《かま》の下に火を焚《た》きつけた。親たちが横浜の叔父の方へ引き寄せられて、そこで襯衣《シャツ》や手巾《ハンケチ》ショールのような物を商うことになってから、東京にはお庄の帰って行くところもなくなった。お庄は襷《たすき》をかけたままそこの板敷きに腰かけて、眠いような、うッとりした目を外へ注いでいたが、胸にはいろいろのことがとりとめもなく想い出された。水弄《みずいじ》りをしていると、もう手先の冷え冷えする秋のころで、着物のまくれた白脛《しろはぎ》や脇明《わきあ》きのところから、寝熱《ねぼて》りのするような肌《はだ》に当る風が、何となく厭なような気持がした。
お庄は雑巾を絞ってそこらを拭きはじめたが、薄暗い二人の寝間では、まだ寝息がスウスウ聞えていた。
お庄は裾《すそ》を卸《おろ》して、寝床の下の方から二階へ上って行くと、押入れのなかから何やら巾着《きんちゃく》のような物を取り出して、赤い帯の間へ挟んだが、また偸《ぬす》むようにして下へ降りて行ったころに、亭主がようやく起き出して、袖《そで》や裾の皺《しわ》くちゃになった単衣《ひとえ》の寝衣《ねまき》のまま、欠《あくび》をしながら台所から外を見ながらしゃがんでいた。
お庄は体が縮むような気がして、そのままバケツを提げて水道口へ出て行った。泡《あわ》を立てて充《み》ち満ちて来る水を番しながら考え込んでいたお庄は、やがて的《あて》もなしにそこを逃げ出した。
十一
お庄はごちゃごちゃした裏通りの小路《こみち》を、そっちへゆきこっちへ脱けしているうちに、観音堂前の広場へ出て来た。紙片《かみきれ》、莨の吸殻などの落ち散った汚い地面はまだしっとりして、木立ちや建物に淡い濛靄《もや》がかかり、鳩《はと》の啼《な》き声が湿気のある空気にポッポッと聞えた。忙しそうに境内を突っ切って行く人影も、大分見えていた。お庄はここまで来ると、急に心が鈍ったようになって、渋くる足をのろのろと運んでいたが、するうちに、堂の方を拝むようにして、やがて仁王門《におうもん》を潜《くぐ》った。
仲店《なかみせ》はまだ縁台を上げたままの家も多かった。お庄は暗いような心持で、石畳のうえを歩いて行ったが、通りの方へ出ると間もなく、柳の蔭の路側《みちわき》で腕車《くるま》を決めて乗った。
「湯島までやって頂戴な。」と、お庄は四辺《あたり》を見ないようにして低い声で言うと、ぼくりと後の方へ体を落して腰かけた。
上野の広小路まで来たころに、空の雲が少しずつ剥《は》がれて、秋の淡日《うすび》が差して来た。ぼっと霞《かす》んだようなお庄の目には、そこらのさまがなつかしく映った。
お庄は下宿の少し手前で腕車を降りて、それから急いで勝手口の方へ寄って行った。
屋内《やうち》はまだ静かであった。お庄は簾《すだれ》のかかった暗い水口の外にたたずんで、しばらく考えていた。
「どうしてこんなに早く来ただい。」
主婦《あるじ》は上って行くお庄の顔を見ると、言い出した。蒼白《あおざ》めたような頬に、薄い鬢《びん》の髪がひっついたようになって、主婦《あるじ》は今起きたばかりの慵《だる》い体をして、莨を喫《す》っていた。
お庄はただ笑っていた。
「小言でも言われただかい。」
「いいえ。」
「何か失敗《しくじり》でもしたろ。」主婦《あるじ》はニヤニヤした。
「いいえ。」
「それじゃあすこが厭で逃げて来ただかい。逃げて来たって、お前の家はもう東京にゃないぞえ。」
お庄は袂で括《くく》れたような丸い顎《あご》のところを拭いていた。
「それにあすこはお父さんが、ちゃんと話をつけて預けて来たものだで、出るなら出るで、またその話をせにゃならん。お前は黙って出て来ただかい。」
「…………。」
「そんなことしちゃよくないわの。向うも心配しているだろうに。」と、主婦《あるじ》は煙管《きせる》を下におくと、台所の方へ立って行った。そして、楊枝を使いながら、「家へ帰ったっていいこともないに、どうして浅草で辛抱しないだえ。銀行へ預けた金もちっとはあるというではないかい。」
お庄はしばらく見なかったこの部屋の様子を、じろじろ見廻していた。
奥から二男の糺《ただす》も、繁三も起き出して来た。今茲《ことし》十九になる糺はむずかしい顔をして、白地の寝衣《ねまき》の腕を捲《まく》りあげながら、二十二、三の青年のように大人《おとな》ぶった様子で、火鉢の傍に坐ると、ぽかぽか莨を喫い出した。
「糺や、お庄が浅草の家を逃げて来たとえ。」と主婦《あるじ》は大声で言った。
糺は目元に笑って、黙っていた。
「また詫《わ》びを入れて帰って行くにしろ、このまま出てしまうにしろ、断わりなしに出て来るというのはよくないで、お前は葉書を一枚書いて出しておかっし。」
糺はうるさそうに口を歪《ゆが》めていた。
朝飯のとき、お庄も衆《みんな》と一緒に餉台《ちゃぶだい》の周《まわ》りに寄って行った。
「浅草へ行ってから、お庄もすっかり様子がよくなった。」糺は飯を盛るお庄の横顔を眺めながら笑った。
十二
ここの下宿は私立学校の医学生と法学生とで持ちきっていた。長いあいだ居着いているような人たちばかりで、菊太郎や糺とも親しかった。中には免状を取りはぐして、頭脳《あたま》も生活も荒《すさ》んでしまった三十近い男などが、天井の低い狭い部屋にごろごろして、毎日花を引いたり、碁を打ったりして暮した。夜はぞろぞろ寄席へ押しかけたり、近所の牛肉屋や蕎麦屋《そばや》で、火を落すまで酒を飲んだりした。北廓《なか》の事情に詳しい人や、寄席仕込みの芸人などもあった。
「××さんもいつ免状をお取りなさるだか。お国のお父さんも、すっかり田地を売っておしまいなすったというに、そうして毎日毎日茶屋酒ばかり飲んでいちゃ済まないじゃないかえ。」
主婦《あるじ》は楊枝を啣《くわ》えて帳場の方へ上り込んで来る書生の懦弱《だじゃく》な様子を見ると、苦い顔をして言った。
「私らンとこの菊太郎も実地はもうたくさんだで、今茲《ことし》は病院の方を罷《よ》さして、この秋から田舎に開業することになっておりますでね、私もこれで一ト安心ですよ。病院ももう建て前が出来た様子で、昔のことを思《おも》や地面も三分の一ほかないけれど、旧《もと》の家の跡へ親戚《しんせき》で建ってくれたと言うもんだでね。」
主婦《あるじ》は同じようなことを、一人に幾度も言って聞かせた。
その書生は鼻で遇《あしら》って、主婦が汲んで出す茶を飲みながら、昨夜《ゆうべ》の女の話などをしはじめた。
「あれ、厭な人だよ、手放しで惚気《のろけ》なんぞを言って。」
と、主婦はじれじれするような顔をした。
するうちに、奥の暗い部屋で差《さ》しで弄花《はな》が始まった。主婦は小肥りに肥った体に、繻子《しゅす》の半衿のかかった軟かい袷《あわせ》を着て、年にしては派手な風通《ふうつう》の前垂《まえだれ》などをかけていた。黒繻子の帯のあいだに財布を挟んで、一勝負するごとに、ちゃらちゃら音をさせて勘定をした。
学校から衆《みんな》が帰って来ると、弄花《はな》の仲間も殖えて来た。二男の糺も連中に加わって、出の勝つ母親のだらしのない引き方を尻目にかけながら、こわらしい顔をしていた。
夕方になると、主婦《あるじ》は乗りのわるい肌の顔に白粉などを塗って、薄い鬢を大きく取り、油をてらてらつけて、金の前歯を光らせながら、帳場に坐り込んでいた。
「お神さんがまた白粉を塗っているのよ。」と、女中は蔭でくすくす笑った。
「××さんがこのごろほかに女が出来たもんだから、焼けてしようがないのよ。」
女中は廊下の手摺《てす》りに凭《もた》れながらお庄に言って聞かせた。
この書生は、外へ出ない時はよく帳場の方へ入り込んでいた。主婦と一緒に寄席へ行くこともあった。帰りにはそこらの小料理屋で一緒に酒を飲んで、出て行った時と同じに、別々に帰って来た。その書生は二十八、九の、色の白い、目の細い、口の利《き》き方の優しい男であった。
主婦がその部屋へ入り込んでいるのを、お庄は幾度も見た。
「ちょいとちょいと、面白いものを見せてあげよう。」剽軽《ひょうきん》な女中はバタバタと段梯子《だんばしご》から駈け降りて来ると、奥の明るみへ出て仕事をしているお庄を手招ぎした。
女中は二階へあがって行くと、足を浮かして尽頭《はずれ》の部屋の前まで行って、立ち停ると、袂で顔を抑えてくすくす笑っていた。
十時ごろの下宿は、どの部屋もどの部屋もシンとしていた。置時計の音などが裏《うら》からかちかち聞えて、たまに人のいるような部屋には、書物の頁《ページ》をまくる音が洩れ聞えた。
お庄は逃げるように階下《した》へ降りて行くと、重苦しく呼吸《いき》が塞《つま》るようであった。
お庄は冬の淋しい障子際に坐って、また縫物を取りあげた。冷たい赭《あか》い畳に、蝿《はえ》の羽が弱々しく冬の薄日に光っていた。
十三
横浜の店をしまって、一家の人たちがまた東京へ舞い戻って来るまでには、お庄も二、三度その家へ行ってみた。
家は山手の場末に近い方で、色の褪《あ》せたような店には、品物がいくらも並んでいなかった。低い軒に青い暖簾《のれん》がかかって、淋しい日影に曝《さら》された硝子《ガラス》のなかに、莫大小《メリヤス》のシャツや靴足袋《くつたび》、エップルのような類が、手薄く並べられてあった。
飴屋《あめや》の太鼓の周《まわ》りに寄っている近所の鍛冶屋《かじや》や古着屋の子供のなかに哀れなような弟たちの姿をお庄は見出した。弟たちは、もうここらの色に昵《なじ》んで、目の色まで鈍いように思えた。
「正《まさ》ちゃん正ちゃん。」と、お庄が手招ぎすると、一番大きい方の正雄は、姉の顔をじっと見返ったきり、やはりそこに突っ立っていた。
上って行くと、荒《さび》れたような家の空気が、お庄の胸にもしみじみ感ぜられた。母親は、この界隈《かいわい》の内儀《かみ》さんたちの着ているような袖無しなどを着込んで、裏で子供の着物を洗っていた。目の色が曇《うる》んで、顔も手もかさかさしているのが、目立って見えた。
母親は傍へ寄って行くお庄の顔をしげしげと見た。頬や手足の丸々して来たのが、好ましいようであった。
「湯島じゃ皆な変りはないかえ。」
お庄は台所の柱のところに凭《もた》れ
前へ
次へ
全28ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング