《あぶ》ったり、浸《ひた》しのようなものを拵えたりした。
「お庄や、お前通りまで行って酢を少し買って来てくれ。」父親は戸棚から瓶《びん》を出すと、明るい方へ透して見ながら言った。
「酢が切れようが砂糖がなくなろうが、一向平気なもんだ。そらお鳥目《あし》……。」と、父親は懐の財布から小銭を一つ取り出して、そこへ投《ほう》り出した。
「あれ、まだあると思ったに……。」と、ランプに火を点《とも》していた母親は振り顧《かえ》って言おうとしたが、業《ごう》が沸くようで口へ出なかった。母親の胸には、これまで亭主にされたことが、一つ一つ新しく想い出された。
お庄は気爽《きさく》に、「ハイ。」と言って、水口の後の竿《さお》にかかっていた、塩気の染《し》み込んだような小風呂敷を外《はず》して瓶を包みかけたが、父親の用事をするのが、何だか小癪《こしゃく》のようにも考えられた。常磐津《ときわず》の師匠のところへ通っている向うの子でも、仲よしの通りの古着屋の子でも、一度も自分のような吝《しみ》ったれた使いに出されたことがなかった。ちょっとしたことで、弟を啼《な》かすと、すぐに飛びかかって来て引っ掴《つか》んで、呼吸《いき》のつまりそうな厚い大きな田舎の夜具にぐるぐる捲きにされて、暗い納戸の隅にうっちゃっておかれたり、霙《みぞれ》がびしょびしょ降って寒い狐《きつね》の啼き声の聞える晩に、背戸へ締出しを喰わしておいて、自分は暖かい炬燵《こたつ》に高鼾《たかいびき》で寝込んでいたような父親に、子供は子供なりの反抗心も持って来た。
お庄はどの家でも、明るい餉台《ちゃぶだい》の上にこてこてと食べ物が並べられ、長火鉢の側で晩飯の箸《はし》を動かしている、賑《にぎ》やかな夕暮の路次口を出て行くと、内儀《かみ》さん連の寄っているような明るい店家の前を避けるようにして、溝際《みぞぎわ》を伝って歩いていた。いつも立ち停って聞くことにしている通りの師匠の家では、このごろ聞き覚えて、口癖のようになっているお駒才三《こまさいざ》を誰やらがつけてもらっていた。お庄は瓶を抱えたまま、暗い片陰にしばらくたたずんでいた。
お庄は振りのような手容《てつき》をして、ふいとそこを飛び出すと、きまり悪そうに四下《あたり》を見廻して、酒屋の店へ入って行った。
急いで家へ帰って来ると、父親はランプの下で、苦い顔をして酒の燗《かん》をしていた。子供たちは餉台の周《まわ》りに居並んで、てんでんに食べ物を猟《あさ》っていた。
母親は手元の薄暗い流し元にしゃがみ込んで、ゴシゴシ米を精《と》いでいた。水をしたむ間、ぶすぶす愚痴を零《こぼ》している声が奥の方へも聞えた。お庄はまた母親のお株が始まったのだと思った。父親はそのたんびにいらいらするような顔に青筋を立てた。
母親が襷《たすき》をはずして、火鉢の傍へ寄って来る時分には、父親はもうさんざん酔ってそこに横たわっていた。お庄は、気味のわるいもののように、鼻の高い、鬢《びん》の毛の薄い、その大きな顔や、脛毛《すねげ》の疎《まば》らな、色の白い長いその脚《あし》などを眺めながら、母親の方へ片寄って、飯を食いはじめた。
母親の口には、まだぶすぶす言う声が絶えなかった。臆病《おくびょう》なような白い眼が、おりおりじろりと父親の方へ注がれた。張ったその胸を突き出して、硬い首を据《す》え、東京へ来てからまだ一度も鉄漿《かね》をつけたことのないような、歯の汚い口に、音をさせて飯を食っている母親の様子を、よく憎さげに真似してみせた父親の顔に思い合わせて、お庄は厭なような気がした。達磨屋《だるまや》の年増や、義太夫語りの顔などをお庄は目に浮べて、母親は様子が悪いとつくづくそう思った。
八
次の年の夏が来るまでには、お庄の一家にもいろいろの変遷があった。暮には残しておいた山畑を売りに父親が田舎へ出向いて行って、その金を持って帰って来ると、ようやく諸払いを済まして、お庄兄弟のためにも新しい春着が裁ち縫いされ、下駄や簪《かんざし》も買えた。お庄らは田舎から持って来た干栗《ほしぐり》や、氷餅《こおりもち》の類をさも珍しいもののように思って悦《よろこ》んだ。正月にはお庄も近所の子供並みに着飾って、羽子《はね》など突いていたが、そのころから父親は時々家をあけた。
下宿の主婦《あるじ》は、「為さあは、金が少し出来たと思って、どこを毎日そうぶらぶら歩いてばかりいるだい。」と、来ては厭味を言っていた。
父親はニヤリともしないで、「私《わし》もそういつまでぶらぶらしてはいられないで、今度という今度は商売をやろうと思って、そのことでいろいろ用事もあるで……。」と言うていたが、父親の目論見《もくろみ》では、田舎の町で知っている女が浅草の方で化粧品屋を出している、その女に品物の仕入れ方を教わって、同じ店を小体《こてい》に出して見ようという考えであった。
お庄は一月の末に、父親に連れられて一度その女の家へ行った。母親も薄々この女のことは知っていた。田舎からの父親の昵《なじ》みで、ずっと以前に、商売を罷《や》めて、その抱え主と一緒に東京へ来ていた。抱え主は十八、九になる子息《むすこ》と年上の醜い内儀さんとを置去りにして、二人で相当な商《あきな》いに取り着けるほどの金を浚《さら》って、女をつれて逃げて来た。そのころにはその楼《うち》も大分左前になっていた。
その亭主は大して患《わずら》いもしないで、去年の秋のころに死んでから、男手の欲しいような時に、父親が何かの相談相手に、ちょいちょい顔を出し出ししていた。母親は、喧嘩《けんか》の時は、そのことも言い出したが、不断は忘れたようになっていた。父親は櫛《くし》など薄い紙に包《くる》んで来て、そっと鏡台の上に置いてくれなどした。
「こんらも高いものについているら。」と言って、母親は櫛を手に取って吐き出すように言ったが、抽斗《ひきだし》の奥へしまい込んで、ろくに挿《さ》しもしなかった。棄《す》てるのも惜しかった。
お庄は手鈍《てのろ》い母親に、二時間もかかって、顔や頸《えり》を洗ってもらったり、髪を結ってもらったりして、もう猫《ねこ》になったような白粉《おしろい》までつけて出て行った。お庄は母親の髪の弄《いじ》り方や結い方が無器用だと言って、鏡に向っていながら、頭髪《あたま》をわざと振りたくったり、手を上げたりした。父親も側で莨を喫いながら口小言を言った。
「人に髪を結ってもらって、今からそんな雲上《うんじょう》を言うものじゃないよ。」と、母親も癇癪《かんしゃく》を起して、口を尖《とんが》らかしてぶつぶつ言いながら、髪を引っ張っていた。
「庄ちゃんの髪の癖が悪いからだよ。」
「阿母《おっか》さんに似たんだわ。」お庄もべろりと舌を出した。
その女の家は、雷門《かみなりもん》の少し手前の横町であった。店にはお庄の見とれるような物ばかり並んでいたが、そこに坐っている女の様子は、お庄の目にも、あまりいいとは思えなかった。薄い毛を銀杏返《いちょうがえ》しに結って、半衿《はんえり》のかかった双子《ふたこ》の上に軟かい羽織を引っかけて、体の骨張った、血の気《け》の薄い三十七、八の大女であった。
「おや、お庄ちゃん来たの。」というような調子で、細い寝呆《ねぼ》たような目尻に小皺《こじわ》を寄せた。
父親はじきに奥の方へ上って行った。奥は暗い茶の間で、畳も汚く天井も低く窮屈であったが、火鉢や茶箪笥などはつるつるしていた。そのまた奥の方に、箪笥など据えた部屋が一つ見えた。
お庄は膝《ひざ》へ乗っかって来る猫を気味悪がって、尻をもぞもぞさせていると、女は長火鉢の向うからじろじろ見て笑っていた。
九
父親とその女との話は、お庄には解らないようなことが多かった。女はお庄のまだ知らないお庄の家のことすら知っていた。田舎の縁類の人の噂《うわさ》も出た。お庄はどこか父親に肖《に》ているとか、ここが母親に肖ているとか言って、顔をじろじろ見られるのが、むず痒《かゆ》いようであった。
「庄ちゃん小母《おば》さんとこの子になっておくれな、小母さんが大事にしてそこら面白いところを見せてあげたりなんかするからね。」と言ったが、お庄には、黙っている父親にも、その心持があるように思えた。
女はそこらを捜して銀貨を二つばかりくれると、「お庄ちゃん、公園知っていて。観音さまへ行ったことがあるの。賑《にぎ》やかだよ。」と言って訊《き》いた。
「知ってるとも、すぐそこだ。」父親は長い顎《あご》を突き出した。
「独《ひと》りじゃどうだかね。」
「何、行けるとも。それは豪《えら》いもんだ。」
お庄は銀貨を帯の間へ挟《はさ》んで、家だけは威勢よく駈《か》け出したが、あまり気が進まなかった。一、二度来たことのある釣堀《つりぼり》や射的の前を通って、それからのろのろと池の畔《はた》の方へ出て見たが、人込みや楽隊の響きに怯《おじ》けて、どこへ行って何を見ようという気もしなかった。
お庄は活人形《いきにんぎょう》の並んだ見世物小屋の前にたたずんで、その目や眉《まゆ》の動くさまを、不思議そうに見ていたが、うるさく客を呼んでいる木戸番の男の悪ごすいような目や、別の人間かと思われるような奇妙な声が気になって、長く見ていられなかった。幕の外に出ている玉乗りの女の異様な扮装《ふんそう》や、大きい女の鬘《かつら》を冠《かぶ》った猿《さる》の顔にも、釣り込まれるようなことはなかった。
今の家と同じような小間物店や、人形屋の前へ来たとき、お庄は帯の間の銀貨を気にしながら、自分にも買えるようなものを、そっちこっち見て歩き歩きしたが、するうちに店が尽きて、寒い木立ち際の道へ出て来た。
公園を出たころには、そこらに灯の影がちらちら見えて、見せ物小屋の旗や幕のようなものが、劇《はげ》しい風にハタハタと吹かれていた。お庄はいつごろ帰っていいか解らないような気がしていた。
帰って行くと、父親は火鉢の側《そば》で、手酌《てじゃく》で酒を飲んでいた。女も時々来ては差し向いに坐って、海苔《のり》を摘《つま》んだり、酌をしたりしていたが、するうちお庄も傍《そば》で鮓《すし》など食べさせられた。
「お前今夜ここで泊って行くだぞ。」父親は酒がまわると言い出した。
「この小母さんが、店の方がちと忙しいで、お前がいてしばらく手伝いするだ。」
「私帰って家の阿母《おっか》さんに聴いて見て……。」お庄は紅味《あかみ》のない丸い顔に、泣き出しそうな笑《え》みを浮べた。
「阿母さんも承知の上だでいい。」
お庄は黙ってうつむいた。
「お庄ちゃん厭……初めての家はやっぱり厭なような気がするんでしょうよ。」と、女は傍《わき》の方を向きながら、拭巾《ふきん》で火鉢の縁《ふち》を拭いていた。
「お前はもう十三にもなったもんだで、そのくらいのことは何でもない。」
「少し昵《なじ》んでからの方がいいでしょうよ。」と、女も気乗りのしない顔をしていた。
お庄はその晩、簪《かんざし》など貰《もら》って帰った。
花見ごろには、お庄も学校の隙《ひま》にここの店番をしながら、袋を結《ゆわ》える観世綯《かんぜよ》りなど綯らされた。
十
品物の出し入れや飾りつけ、値段などを少しずつ覚えることはお庄にとって、さまで苦労な仕事ではなかったが、この女を阿母さんと呼ぶことだけは空々《そらぞら》しいようで、どうしても調子が出なかった。それに女は長いあいだの商売で体を悪くしていた。時々頭の調子の変になるようなことがあって、どうかするとおそろしい意地悪なところを見せられた。お庄はこの女の顔色を見ることに慣れて来たが、たまに用足しに外に出されると、家へ帰って行くのが厭でならなかった。
お庄は空腹《すきはら》を抱えながら、公園裏の通りをぶらぶら歩いたり、静かな細い路次のようなところにたたずんで、にじみ出る汗を袂《たもと》で拭きながら、いつまでもぼんやりしていることがたびたびあった。
慵《だる》い体を木蔭のベンチに腰
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