《へいぎわ》に、大きな立《た》ち樹《き》が暗く枝葉を差し交していて、裏通りにも人気がなかった。浅山の話によると、ここはもと神田で大きな骨董商《こっとうしょう》をしていた中村の父親の別邸で、今の代になってから、いろいろな失敗が続いて、このごろではこの家すら抵当に入っているということであった。芳太郎のお袋からも、少しは借りているような様子もあった。
 この廃邸《あれやしき》の空気は、お庄にはあまり居心《いごこち》がよくなかった。部屋で声を立てても、奥から駈けつけて来てもらえそうにも思えなかったし、庭も何だか陰気くさかった。こんなところで毎日芳太郎と顔を突き合わしているよりも、家で座敷の手伝いでもしていた方が、まだしも気が紛れてよかったようにも思えた。
 深い木立ち際から舞い込んで来た虫が、薄暗いランプの笠に淋しい音を立てて周《まわ》りを飛んでいた。お庄は帯を締めると、障子を閉《た》てきって、暗い廊下の方へ出て行った。
 だだッ広い茶の室《ま》では、大きな餉台《ちゃぶだい》がまだ散らかったままであった。下町育ちらしい束髪の細君が、胸を披《はだ》けて萎《しな》びた乳房を三つばかりの女の子に啣《ふく》ませている傍に、切り髪の姑《しゅうとめ》や大きい方の子供などもいた。四十四、五の頭髪《かみ》の薄い主《あるじ》は、古い折り鞄からいろいろの書類を取り出してしきりに何やら調べていた。
 ひっそりした広い門のうちには、ほかに汚い家が二軒ばかり明りが洩れていた。
 淋しい屋敷町を通って、お庄が湯から帰って来たころには、芳太郎も途中で、一杯飲んで帰って来たところであった。芳太郎は薔薇色の胸を披けて、ランプの蔭に引っくらかえっていた。細《ほっ》そりした足の指頭《ゆびさき》まで真紅《まっか》であった。
 お庄は声もかけずに、そっと押入れから小掻捲《こがいま》きを取り出して被《か》けてやると、置き床のうえに据えた鏡台の前に坐って、銀杏返《いちょうがえ》しの鬢《びん》を直したり、白粉をつけたりして、やがてまた部屋を出て行った。
 その晩十時過ぎまで、お庄は茶の室《ま》で話し込んでいた。主《あるじ》が寝てからも、細君に引き留められて、身の上|談《ばなし》などして聞かされた。舅《しゅうと》がまだ世にあった自分の良人の放蕩《ほうとう》が原因で、自分たちがとうとう賑やかな下町から、こんな山のなかへ逐《お》いあげられたという細君の話では、この夫婦の若いころの豊かな生活の有様が想像され、子供が育つ時分から、だんだん落ちて来て、こうした貧乏世帯に慣らされるまでの細君の気苦労も窺《うかが》えるように思えた。
「私も、まさかあんな家とは思いませんでしたよ。」
 お庄もつい引き込まれて、自分の家の事情など話しながら言い出した。お庄はここの人たちの心持も知っておきたいと思った。
「あのお爺さんのいるうちは、とても丸く行かないだろうって、良人《うち》でも心配しているんですよ。」と細君はこの婚礼についての主の苦心を語った。これまでにも、芳太郎がちょくちょくここへ囲《かく》まわれていたことも言い出された。
「……あの人が、一番可哀そうですの。」と細君はこうも言った。

     八十四

 芳太郎が、中村の知っているある通運会社へ出ることになってから、お庄も時々外へ出られるようになった。
 これまで芳太郎は、中村から小遣いを強求《せび》っては、浪花節《なにわぶし》や講釈の寄席《よせ》へ入ったり、小料理屋で飲食いをしたりして、ぶらぶら遊んでいた。昼は邸の裏の池に鉄網《かなあみ》を張って飼ってある家鴨《あひる》や家鶏《にわとり》を弄《いじ》ったり、貸し本を読んだりして、ごろごろしていたが、それにも倦《う》んで来ると、お庄をいびったり、揶揄《からか》ったりした。お庄がちょっとでも家を出ようとすると、芳太郎が目の色がたちまち変った。家へ訪ねて来たお庄の前の男のことも始終言い出された。
 木立ちの深いこの部屋は、昼もめったに日光が通わなかった。三時ごろからしばらくの間|斜《はす》に差し込む西日の影は、かなり暑かった。お庄は芳太郎の昼寝をしている側で、自分もぐったり眠ってしまうようなことが間々《まま》あった。森に蜩《ひぐらし》の声が、聞える時分に、ふと汗ばんだ腋《わき》のあたりに、涼しい風が当って目がさめると、芳太郎もぼんやりした顔をして、起き直っていた。両手を上へ伸ばして、突伏《つっぷ》しになっていたお庄は、懈《だる》い体を崩して、べッたりと坐りながら、大きい手で顔を撫《な》でたり、腕を擦《さす》ったりしていた。通りに豆腐屋の声などがして、邸のなかはひっそりとしていた。
 体に悪戯《いたずら》をされたことに心づくと、お庄は妙に腹が立った。子供のような芳太郎はお庄のぶよぶよした白い股《もも》のあたりに、何やら入れ墨のようなものを描いて、にやにやしていた。
「知っていますよ。」
 お庄はその悪戯書きを見て見ぬふりをしていたが、終いに一緒に噴《ふ》き出してしまった。
「叱られますよ。」とお庄はまた本気《むき》になって見せた。その顔は紅《あか》かった。
 く、く、くと鳴いている鶏《とり》の世話をしに芳太郎は裏の方へ出て行った。お庄も砂埃を拭き掃除しようと思ったが、初め来たころ日課にしていたようには働けもしなかった。今日逃げようか、明日は出ようかという気が、始終|頭脳《あたま》にあった。
 浅山のうちでも、長く続かないことが解って来た。いつかお庄が、夜その相談に行ったときも、夫婦は、もう断念《あきら》めてしまったような口吻《こうふん》を洩らしていた。
「私たちが黒幕にいるように思われちゃ、事が面倒ですよ。中村さんにも気の毒ですから、誰も知らない風にして、うまく逃げられたらお逃げなさい。そうすれば、私たちにも責任はないし、中村の顔も立つんですから。」と、従姉《あね》は内々でお庄を唆《そその》かした。
 お庄はそれから、時々風呂敷に包んで、着物や何かを、夜|従姉《あね》の家へ持ち込むことにした。家からも、中村の家へ持ち運ぶように見せかけて、少しずつ取り出すことを怠らなかった。中には以前磯野から受け取った手紙を封じ込んだ背負《しょ》い揚《あ》げや、死んだ叔母から伝わった歌麿《うたまろ》の絵本などがあった。その絵本を、ほかの物と一つに、お庄は磯野と質に入れたこともあったが、芳太郎のところへ来てから間もなく、やっと取り出すことが出来た。お庄はその値打ちのものだということを、磯野に聴いて知っていた。
「まかり間違って、茨城にいるお照さんのところへ訪ねて行くにしても、これを売りさえすれば旅費ぐらいは出来る。」
 お庄は中村や芳太郎の手からのがれたとき、切迫《せっぱ》つまって来れば、自分はどこへ行く体か解らないと思った。そして、その方がどんなに自由だか知れないとも考えた。
 お庄は箪笥の底から持ち出して、従姉《あね》の家へその絵本の入った手匣《てばこ》を持ち込む時も、そっと中から出して、黴《かび》くさい絵を従姉に見せながら、その値踏みなどをしてもらった。

     八十五

「そう毎日ぶらぶら遊んでばかりいるのが、大体よろしくない。」世話好きな中村は、会社から退《ひ》けて来ると、芳太郎に何か叱言《こごと》を言いながら言った。
 芳太郎はまだ庭で鶏《とり》を折打《せっちょう》していた。鶏は驚きと怖れに充血したような目をして、きょときょとと木蔭をそっちこッち遁《に》げ廻った。木の下や塀の隅はもう薄暗くなっていた。芳太郎は竿でその鶏をむやみに逐《お》い廻していた。そこへ洋服姿の主《あるじ》が、縁から降りて来たのであった。
 二人で鶏を鶏舎《とや》へ始末をしてから、縁側の方へ戻って来ると、中村は愚かしい芳太郎に、いつも言って聞かせるようなことを、また繰り返した。
「まさか労働するわけにも行くまいが、何しろ若いものが遊んでいてはいけない。体が怠けるばかりだ。お神に堅くなったという証拠を見せるつもりで、一時こういうところへ出てみてはどうかね。」と、中村はその時自分の知っている通運会社のことを言い出した。
 芳太郎は荒い息をしながら、縁に腰かけて黙って莨《たばこ》を喫《ふか》していたが、するうちに手拭や石鹸《せっけん》を持ち出して湯に行った。
 お庄や細君――女連は土台の腐れた古い湯殿で毎日行水を使うことになっていた。
 麹町《こうじまち》の方の会社へ出るようになってから、芳太郎はこれまでのように朝寝をしていることも出来なかった。
 店の忙《せわ》しいとき、芳太郎は夜おそく帰るような日が二、三日続いた。
 お庄は押入れの行李のなかに残っていたものを、萌黄《もえぎ》に唐草《からくさ》模様の四布《よの》風呂敷に包んで、近所からやとって来た俥に積み、自分もそれに乗って、晩方中村の邸を出た。
 大雨がざあざあ降っていて、外は真暗であった。中村はちょうど留守であったし、広い茶の室《ま》で晩飯の餉台《ちゃぶだい》に就いている細君も老人《としより》もそんな荷を持ち出したことに気がつかなかった。荷の中には、鏡台のような稜張《かどば》った物もくるまれてあった。お庄は自分の部屋の縁側から、ばしばし雨滴《あまだ》れのおちる廂際《ひさしぎわ》に沿《つ》いて、庭の木戸から門までそれを持ち出さなければならなかった。夜具などは後でどうでもなると思ったが、少しばかりの軟かい着替えや手廻りの物を、芳太郎の目の前に遺《のこ》しておくのは不安心であった。
「阿母さんの手隙《てすき》に洗濯や縫直しをしてもらいたいものがありますから。」と、お庄はそんなにびくびくすることもないと思ったので、荷を持ち出す前にちょっと二人の前へ出て断わった。
「昼間風呂敷包みを持ち出すのもおかしゅうござんすから。」と、お庄はそうも言って、胸をそわそわさせながら二人の傍をやっと離れた。
 ここの女たちは、いつお袋や爺さんの機嫌が直って、芳太郎が家へ入るようになるか解らなかった。これまでちょいちょい人に貸したりなどしている部屋を、この夫婦のために長く塞《ふさ》げておくのも惜しかった。細君が主《あるじ》の好奇《ものずき》を喜ばない気振りが、お庄には見えすくように思えて来た。お庄ら夫婦がこの家へ住み込むようになってから、もう一ト月と十日余りになっていた。
 俥の柁棒《かじぼう》が持ち上げられた時、お庄はようやくほっとしたような目つきになった。
 従姉《いとこ》の家へ着くまで、お庄は後から追い駈けられるような気がしていたが、着いてからも気が気でなかった。
 包みはすぐ奥の押入れへ隠されたが、お庄は下駄や傘までも気にして、裏の方へ廻した。
「芳がきっと来ますよ。」と、お庄は落ち着いて坐ってもいられなかった。
「今ごろは押入れでも開けて見て、びっくりしているかも知れませんよ。」
 時計を見ると、芳太郎がいつも帰って来る時分までには、たっぷり一時間の余裕があった。

     八十六

 その晩のうちに、お庄は雨のなかを湯島まで逃げて来た。
 目立たぬ黒絣《くろがすり》の単衣《ひとえ》のうえに、小柄な浅山のインバネスなどを着込んで、半分|窄《つぼ》めた男持ちの蝙蝠傘《こうもりがさ》に顔を隠し、裾を端折《はしょ》って出て行くお庄のとぼけた姿を見て、従姉《あね》は腹を抱えて笑った。
「かまうもんですかよ。彼奴《あいつ》にさえ見つからなけアいいんだ。」と、お庄は用心深く暗い四下《あたり》を見廻しながら出て行った。
 寂しい士官学校前から、広い濠端《ほりばた》へ出たころには、強い風さえ吹き添って来た。お庄は両手で傘に掴《つか》まりながら、すたすたと走るようにして歩いた。俥があったら乗ろうと思ったが、提灯《ちょうちん》の影らしいものすら見当らなかった。見附《みつけ》の方には、淡蒼《うすあお》い柳の蔭に停車場《ステイション》の明りが見えていたが、そんなところへ迂闊《うかつ》に入り込んで行くことも出来なかった。
 そこからは道が一条《ひとすじ》であった。神楽坂《かぐらざか》の下まで来ると、世界がにわかに明
前へ 次へ
全28ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング