なんぞどうでもいいんです。」と、お庄は邪慳《じゃけん》そうに言ったが、磯野はまだそこにもじもじしていた。
八十
磯野を送り出してから、お庄はしばらく座敷にぼんやりしていた。
磯野はまだ話したいこともあるから、金助町の方へ来たら、一度訪ねてくれと、靴の紐を結びながら言っていたが、お庄は磯野のここへ来たことを、伯母などの耳へ入れたくないと思った。十八の年に初めて男に逢ったのが磯野で、それから三年ばかり関係していた。田舎から出て来てからは、磯野も比較的落ち着いて勉強していたし、お増の事件さえなければ二人の交情《なか》は何のこともなく続けられたかも知れなかった。磯野も始終気の移って行く男だから、あれで別れてかえってよかったようにも思えたが、やきもきしてこっちから騒ぎを大きくした傾きのあったのがくやしかった。
お庄はそこに坐って少しばかり銚子に残っていた酒を注いで、独りで飲んだ。器などの散った部屋には今まで差していた西日の影が消えて、野良《のら》くさい夕風が吹いていた。お袋の耳へ入れば、どうせ一騒ぎ持ち上らずには済まないだろうし、もう長くはここにもいられないような気がしていた。書付けばかり持って帳場へ行くのも厭であった。
お庄は勘定前を合わそうと思って、帯の間の財布から自分の小遣いをさらけ出して、磯野の置いて行った祝儀と一緒にしているところへ、芳太郎が入って来た。お庄は急いで財布を帯の間へ挟んだ。
「情人《いろ》でも何でもないものなら、お前が自腹を切る謂《い》われはないじゃないか。家だってお前の親類の人から、勘定を取ろうとは言やしまいし。」芳太郎はお庄の側へ来て、胡坐《あぐら》を掻いていながら言った。もう飲口を捻《ひね》って二、三杯|呷《あお》って来たらしかった。
「それアそうですけれどもね、そうしないと私も何だか厭ですから。」とお庄は気味悪そうにそこらを片着けはじめた。
「まアそんなことはどうでもいいや、お前にごまかされるような己《おれ》じゃないんだからな。」
「それはそうですとも。私もこんなつもりでこちらへ来たんじゃないんですよ、話と実際とは、随分違っていたんですからね。」
がちゃがちゃと軍刀の音をさして、いつも来て飲む大隊の方の将校が、二人門の方から入って来て、縁側へ腰かけて靴を脱いだころには、芳太郎もお庄も大分頭が熱していた。芳太郎はそこにあった盃洗《はいせん》を取って投げつけるし、お庄は胸から一杯に水を浴びながら、橋廊下の方へ逃げて行って、手※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》で頚首《えりくび》などを拭いていた。芳太郎はまた空の銚子を持って、部屋を飛び出した。
ここの家の様子をよく知っている、頭の禿《は》げた年取った方の将校は、ふらふらと追っかけて行く芳太郎の姿を見ると、次の部屋から出て来て見た。
「おいおいどうしたんだい。」と、その将校が声をかけた時分には、お庄はもう素足で庭へ飛び出していた。
暗い物置のなかへ逃げ込んだお庄が、料理場から引き返して来た芳太郎に隅の方へ押えつけられて、目のうえで刺身庖丁《さしみぼうちょう》を振り廻されているところを、将校も母親も駈けつけて行って、やっと取り押えた。刃物を※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎ取られた芳太郎が、披《はだ》けた胸を苦しげな荒い息に波立たせながら上へ引っ張りあげられると、お庄も壊れた頭髪《かみ》を手で押えながら真蒼《まっさお》になって物置を出て来た。そこらはもう暗くなっていた。
その晩、牛込から親父が呼び寄せられた。
「脅《おど》かすんだよ。私なんざ慣れッっこで平気なものさ。」と、お袋はしばらくぶりで帰って来た爺さんと、酒を飲みながらお庄に言った。
「こんなことは、四ツ谷なぞへ行って、あまり弁《しゃべ》っちゃいけないよ。」お袋はこう言ってお庄に口留めをした。
芳太郎も酔いがさめると、早くから奥へ引っ込んで寝てしまった。
八十一
爺さんが来て、また帳場に頑張ることになってから、芳太郎はしばらく四ツ谷の媒介人《なこうど》の家に預けられた。
その話が決まるまでには、お庄も媒介人《なこうど》から事をわけていろいろに言って聴かされた。火災保険の重立《おもだ》ちの役員であった媒介人《なこうど》の中村の言うことには、お袋などの所思《おもわく》とはまた違ったところもあった。中村は爺さんやお袋やお庄の顔を揃《そろ》えている折にも、自分の考えを述べて、爺さんと反《そ》りの合わない芳太郎を、お庄と一緒に一時自分の家へ引き取ることに話を纏《まと》めた。
忙しい時は、ちょいちょい手伝いに来るという約束で、お庄が中村の家へ移って行ったのは、病気で困りきっていた金助町の叔父が、ちょうど上野から田舎へ立った日の夕方であった。お庄は正雄と一緒に停車場まで見送ってやった。
叔父の家は、その三、四日前に畳まれてあった。雑作も棄売りにして、それで滞っていた払いをすましたり、自分もいくらか懐へ入れて、町に涼気《すずけ》の立った時分に、湯島の伯母の家を俥で出て行った。
叔父は田舎へ行っても、快く自分を迎えて、養生をさしてくれそうな隠れ家の的《あて》とてもなかった。東京で世話をしてやった友人が町でかなりな歯科医の玄関を張っている、そこへ行くか、亡《な》くなった妻の実家の持ち家が少しばかりある、その中の一つを借りて起臥《きが》するかよりほかなかった。どっちにしても、こんな病人に来て寝込まれるのを迷惑がるのは、解りきっていた。
田舎でみっちり養生をして、癒《なお》ったらまた出て来て、運を盛り返そうという心組みのあることは、痩《や》せ衰えた叔父の顔にも現われていた。
「私はまだ結核にはなっておらんつもりだで――。」と、叔父は立つ前にもそう言って、一人では道中が気遣われると言って危ぶむ母親や伯母に笑って言った。
「そんなこといって、汽車のなかで血でも吐いたらどうすらい。」と、母親は弟をたしなめた。ことによったら糺か繁三に行ってもらってもいいし、正雄がついて行ってもいいと思ったが、強《し》いて勧めもしなかった。
「工合が悪かったら、すぐ宿屋へ入ってどっちへでも電報を打たっし。」と、伯母も言い添えた。
叔父の手荷物と言っては、書生で出て来た時分ほどの物すらないくらいであった。時計や指環などもとっくに亡くなって、汚れたパナマだけが、京橋で活動していた時分の面影を遺《のこ》していた。そのパナマも、遊びに来る糺の友人に買ってもらおうとしたくらいであったが、買値《かいね》を言えば嗤《わら》われるほどであったので、叔父は気持を悪くして、それだけは冠《かぶ》って行くことにした。
正雄もお庄も、型の古いその帽子を冠って、三等客車に乗り込んで行く、叔父の、窶《やつ》れて耄《ぼ》けたような姿を見て、後からくすくす笑っていた。
叔父はお庄のことなどは、口へ出して聞きもしなかった。出来る時分にあまり世話をしておかなかったことが、心に省みられたからでもあろうし、このごろ様子や心持のすっかり渝《かわ》った姪《めい》の身のうえを知るのも厭《いと》わしいように見えた。お庄も自分のことを言い出すどころではなかった。
「叔父さんには、もう逢えやしませんよ。」と、お庄はプラットホームを歩いていながら、帰りに弟に話しかけた。弟はまだ売り損ねたパナマがおかしいと言って思い出し笑いをしていた。
送った人たちと一緒に、お庄は湯島の家へ引き返して来たが、今日は中村の家で初めて泊る日だと思うと、うんざりした。一《ひ》ト纏《まと》めにして出て来た、鏡台や着替えを入れた行李などが、もう運び込まれているころだとも思った。
「ああなるのも自業自得でしかたがない。」と、母親らは、まだ茶の室《ま》で茶を呑みながら、今立たしてやった叔父の噂をしていた。
お庄もそれに釣り込まれながらも、時の移るのが気が気でなかった。
八十二
「真実《ほんとう》におっかない人ですよ。」と、お庄は立ち際に、伯母と母親の前で、子の間芳太郎に刃物で追っかけられた話をしながら言い出した。お袋も一度は斬《き》りつけられて怪我《けが》をして、長いあいだ奥州の方の温泉へ行っていたということも話した。
「それじゃまるで話が違うがな。」と、母親は顔の色を変えていた。そんなところへお庄を取り持った四ツ谷の人たちの心持も疑わしいと思った。
「お前が客の前へ出るが悪いといって、そんなことをするだかい。」と、伯母も訊いた。
「まあそうなんでしょうね。婆さんはまた私がそうしないと機嫌が悪いんですの。あの人の腹では、芳太郎が可愛くないことはないんでしょうけれど、どうしたって血を分けた子じゃないんですから、いろいろお爺さんに言われると、その気になるんでしょうよ。やっぱり欲なんですね。」
「その塩梅《あんばい》じゃ、子息《むすこ》が柔順《おとな》しくしていたって、いつ身上《しんしょう》を渡すか解らないと言ったようなものせえ。」母親は望みがなさそうに言った。
「それでいて、私にはいろいろうまいことを言って聴かすんですの。」と、お庄は長く客商売をして来たお袋の自分に対する心持を話した。
「お前のような娘が一人あれば、こんな吝《しみ》ったれな料理屋なんかしていやしないなんて、そんなことを言うんですよ。」
「ああいう人は、女さえ見れアじき金にしようと、そんなことばかり思っているで。」と、伯母は冷笑《あざわら》った。
母親と伯母のあいだには、また門閥の話が出た。田舎にいる父親が、まだ得心していなかったので、籍を送らずにおいたことが、かえって幸いであったようにも思えた。
「まア浅山ともよく相談して見るだい。片輪にでもされてから、何を言って見たって追っ着かない話だで。」伯母は心配そうに言った。
お庄は家のなくなった母親のことも気にかかった。どうせ針仕事もあるから、お庄さえ辛抱する気なら、母親に来ていてもらってもいいと言っていたお袋の言《ことば》を憶《おも》い出したが、効性《かいしょう》のない母親が、手も口も喧《やかま》しい、あの人たちのなかにいられそうにも思えなかった。自分一人の体さえ、いつどうなるか解らないと思った。
「阿母さんこそ、田舎へ帰った方がよかったんですよ。」と、お庄はいじめるように言った。
こんなに行き詰まっても、母親がまだ田舎へ帰るのを厭がっているのがもどかしくも思えた。
「正雄でも一人前にならにゃ、私《わし》も田舎へ提げて行く顔がないで。」と母親は切なげに言った。
「その間、私は私でどこかお針にでも行っているでいいわね。」
「お針って、お安さあはどんな仕事が出来るだい。」と伯母は手も遅く、気も利かない母親のことを嗤《わら》った。これまでにも、お庄に突き放されると、母親は、そこからそこまでへも、買物一つしに行くことが出来なかった。
お庄の帰ったのは、八時ごろであった。婚礼後、芳太郎と一緒に、一度挨拶に行ったことがあるので、家の様子は大概解っていた。お庄はその少し手前で俥から降りて、途中で買った手土産を挈《さ》げながら入って行った。
家はかなり人数が多かった。老人《としより》も子供もあった。お庄は一々それらの人に、叮寧《ていねい》に挨拶をしてから、自分ら夫婦のに決められた奥の部屋へ導かれた。芳太郎はちょうど湯に行っているところであった。
「どうもお世話さまでした。」と、お庄はランプを持って来てくれた細君に愛想よく礼を言って、まだ荷の片着かない部屋を見廻していた。
八十三
お庄もそこらを片着けてから、べとべとする昼間の汗を流して来ようと思って、鏡台の抽斗《ひきだし》にしまっておいた糠袋《ぬかぶくろ》などを取り出し、縁づいてからお袋が見立てて拵えてくれた細い矢羽根の置型《おきがた》の浴衣《ゆかた》に着かえた。
部屋はたッた六畳敷きで、一間の押入れに置き床などがあって、古びた天井も柱もしっかりしていた。住居とはかけ放れた方の位置で、前はすぐ広い荒れた庭になっていた。崩れかかったような塀際
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