、卦《け》などを読んで聞かせた。
「あなたの心は、今二つにも三つにも迷っている。」と、言って、お庄が亭主運のまだ決まっていないことや、今いる場所と動こうとしている方角のよくないことなどを説いて聞かせた。どちらにしても、当分|足掻《あが》きがつかないということだけは確かめられた。
お庄は銀貨を一顆《ひとつぶ》紙に捻《ひね》って、傍に出してあった三方《さんぽう》の上に置いて、そこを出て来た。出る時、俥で乗り着けて来た一人の貴婦人に行き逢った。その婦人は繻珍《しゅちん》の吾妻袋《あずまぶくろ》を提げて、ぱッとした色気の羽二重の被布《ひふ》などを着け、手にも宝石のきらきらする指環を幾個《いくつ》も嵌《は》めていた。夫人は法師《ぼうず》に目礼をすると、すぐにどたばたとお庄らの控えている傍を通って、本堂の奥の方へ入って行ったが、それを見受くる法師《ぼうず》のしおしおした目元には、悪狡《わるごす》いような笑いが浮んでいた。
お庄は何となしもの足りぬような暗い心持で、夏の日ざしの強い伝通院前の広い通りを、片蔭づたいに歩いていた。
七十七
「お前は帳場に見張りをしていておくれ、芳が来てまたお鳥目《あし》を持ち出すといけないから。」と、お袋にそう言われて、お庄は店の方へ来て坐っていた。
爺《じい》さんは二、三日東京へ出ていて、留守であった。お庄が帰って来る前に、母子三人のあいだに大揉《おおも》めがあって、お袋も爺さんに頭脳《あたま》をしたたか撲《なぐ》られた。お庄には深い事情の解りようもなかったが、牛込の自分の弟のところに母子厄介《おやこやっかい》になっている親爺《おやじ》の添合《つれあ》いや子供のことから、時々起る紛紜《ごたくさ》が、その折も二人の間に起っていた。お庄が四ツ谷へ行ッったきり帰らなかったことも一つの問題であった。芳太郎がそのことで暴れ出して、二人に突っかかって行ったのが、一層騒ぎを大きくした。
お庄が帰って来た時分には、家がひっそりしていた。お袋は頭が痛むと言って結び髪のまま氷袋をつけて奥で寝ていたし、芳太郎もそこらで自暴酒《やけざけ》を飲んで行《ある》いて家へ寄りつきもしなかった。
奥の客座敷で、お庄は年増の女中からその話を聞いて、体がぞくぞくするほど厭であった。お庄を速く呼び還《かえ》せと言って、芳太郎がお袋と長いあいだ捫着《もんちゃく》したあげくに、争いが爺さんの方へも移って行った。お袋が死んでしまうと言って、素足のまま帯しろ裸で裏へ飛び出して行ったことや、狂気《きちがい》のように爺さんに武者《むしゃ》ぶりついて泣いたことなどを、女中は手真似をして話した。
「お神さんが独りでいさえすれば、何のことはないんでしょうがね。」と、世帯崩しのこの女中は、婆さんの男意地の汚いのを憎んだ。
「自分じゃ稚《ちいさ》い時分から育てた芳ちゃんが、まんざら可愛くないこともないんでしょうけれどね、やっぱりあの爺さんと別れられないんでしょうよ。お爺さんだって、今となっちゃ空手《ただ》じゃ出て行きゃしませんからね。」
お庄は、お袋からは何のことも聞かされなかった。
今日もお袋は、朝のうち料理場や帳場の方を見廻っていたが、まだ顔色が悪く、髪も取り乱したままであった。そして掃除がすむと神棚へ切り火をあげて、お庄と一緒に餉台《ちゃぶだい》に向いながら、これまでに自分の苦労して来た話などをして聴かした。
「何も辛抱ですよ。辛抱気のない人間はどこへ行っても駄目だよ。」と、お袋は、東京へ行って二日も帰らなかったお庄の心が、まだ十分ここに落ち着いていないのをもどかしく思った。
昼からお袋は、また頭が痛むと言って奥へ引っ込んで行った。
三時ごろ、お庄は帳場の蔭で、新聞の三面記事に読み耽《ふけ》りながら、そうした世間や自分の身のうえなどをいろいろに考えていた。広い通りには折々荷車が通って、燥《はしゃ》ぎきった砂がぼこぼこと立った。箪笥や鏡、嫁入り道具一式を売る向いの古い反物屋の前に据えた天水桶《てんすいおけ》に、熱そうな日が赫々《かっか》と照して、埃深《ほこりぶか》い陳列所の硝子のなかに、色の褪《さ》めたような帯地や友染《ゆうぜん》が、いつ見ても同じように飾られてあった。来た当座は寂しいその店などは、目にも留らなかったが、見馴れるにつれて、思いのほか奥行きのあることも知れて来た。幽暗《ほのぐら》い帳場格子のなかで、算盤《そろばん》をはじいている四十ばかりの内儀《かみ》さんも、そんなに田舎くさくはなかった。
店頭《みせさき》まで来てちょっと立ち停って、そのまま引き返して行った洋服姿の男が、ふと目についた。新しい麦稈《むぎわら》帽子を着て、金縁眼鏡をかけていた丸顔の横顔や様子が、どうやら磯野らしく思われた。お庄はここを覗《のぞ》かれたような気がして、胸がどきりとした。
やがて門の方から奥庭へ入って行く男の姿が、目に入った。男は庭の真中に立って、うそうそ家のなかを見廻していた。お庄は帳場格子の蔭に深くうつむいてしまった。男は確かに磯野であった。
七十八
「お客さまが若い方のお神さんに、ちょっといらして下さいってそうおっしゃるんですよ。」と、一人の女中が莨盆などを運んで行ってから、やがてお庄を呼びに来た。
お庄はその時帳場を離れて、料理場から物置の方へ出ていた。
「私に。」と、お庄はじめじめした物置の蔭に積んである薪《まき》に体を凭《もた》せていながら、胸を騒がせた。
「あの人が私を知っているとでも言うの。」
「何ですか、ただお目にかかりさえすれば解るからって……。」
お庄はそこから庭の方へそっと出て行って見た。あれほど不人情な仕向けをしておきながら、のこのこ嫁入り先へやって来た男の愚かしい心持が腹立たしいようであったが、床柱のところに胡坐《あぐら》を組んで、団扇《うちわ》遣いをしているその姿が目に入ると、何のことも考えていられなくなった。
「しばらくだったね。」と、磯野に挨拶されると、お庄は胸が一杯になって、涙が湧《わ》き立つようににじみ出て来た。
磯野の目にも涙が溜っていた。
「どうして来たんです。」と、お庄はめずらしくチョッキに金鎖などを光らせている男の様子を見ながら、大分経ってから、やっと口を利くことが出来た。ここへ来るためにわざわざこんな身装《みなり》を拵えたのであろうと、お庄はしっくり体に合っていない洋服などがおかしかった。
「僕は実に悪いことをした。お庄ちゃんにも済まなかった。」と磯野は気弱そうな調子で言い出した。
お庄がここへ来たことが、磯野の耳に伝わった時分には、お増はもう天神下の家にもいられなかった。磯野も、時の機《はずみ》でしたことが振り顧って見られたし、お増にも、始終変ってゆく男の心の頼みがたいことが解って来た。学資もろくろく送ってもらえなくなっていた磯野を世に出すまでには、また新しい苦労も重ねなければならぬということも考えられた。
碁会所の若い娘と一緒に歩いている芳村の姿を、天神の境内で見たとき、お増は芳村に鼻を明かされたような気がした。
「芳村さん、あなたは随分ね。」と、お増はその時追い縋《すが》るようにして芳村の後から声かけた。
芳村は黙って行き過ぎようとしたが、後悔の影のさしている女の心をいじらしく思った。
「ちっと遊びにおいで。」と、芳村は娘と離れて、磯野の消息を訊《たず》ねなどした。
芳村がお増を自分の方へ引きつけようとしていることが、磯野の前に何事をも包み隠さぬお増の口吻《くちぶり》でも解った。二人は磯野の叔父の家の二階でよく言合いをした。毎日|頭脳《あたま》のふらふらしている磯野は、気ままなお増に責められて芳村へ詫《わ》び手紙をさえ書いて送らせられ、お増と別れるについて、手切れの金の算段にも出歩かなければならなかった。
「僕はあの時の罰が来て、実にひどい目に逢わされた。」と言って、磯野は涙を出しながら愚痴を零《こぼ》した。
お庄は終いに笑い出した。
「お庄ちゃんも、ここに辛抱おしなさい。ここの家には、相当に金もあるというじゃないか。」と、磯野は手※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》で眼鏡を拭きながら、お庄の顔を眺めた。
「どうですか。何だかあんまり面白いこともないんですけれど。」と、お庄は自分の立場を打ち明ける気にもなれなかった。
「しかし変だね。何にも取らないで話ばかりしていちゃ。」と、磯野は気にし出した。
お庄はそうして長く坐り込まれても困ると思った。母屋《もや》の座敷で昼寝をしている芳太郎のことも気にかかったが、とにかく酒だけは出すことにした。しばらくしてから、卵焼きに海苔《のり》などが酒と一緒に上衣《うわぎ》を脱いで寛《くつろ》いでいる磯野の前に持ち運ばれた。
七十九
磯野がちびちび酒を飲んでいる間も、お庄はちょいちょい母屋《もや》の方を気にして覗きに来た。磯野は切り揚げそうにしては、また想い出したように銚子《ちょうし》をいいつけいいつけしたが、お庄が傍ではらはらするほど、気が熬《い》れて話がこじくれて来た。
「僕はここの家の人に紹介してもらおう、そしてお庄ちゃんのことも頼んで行きたいと思うが悪いかね。」磯野は衣兜《かくし》のなかから、帳場へおく祝儀などを取り出して、お庄の前におきながら言った。
「そんなことをしなくともいいんですよ。かえっておかしゅうござんすから。」と、お庄は押し戻した。
「芳太郎という人にも、ここでちょッと逢って行こうじゃないか。僕は第三者として、お庄ちゃん夫婦のためにいささか健康を祝したいと思う。」と酒の廻った磯野は芝居じみたような調子で、真面目に言い出した。
「それもおかしいでしょう。家は今少しごたごたしているんですよ。」と、お庄は遊《あそ》び人《にん》肌《はだ》のようなところのある芳太郎を、磯野に見らるるのも厭であった。
日が蔭《かげ》りかかる時分に、磯野はやっと帰って行った。
お庄が帳場へ勘定をしに行った時、いつの間にか起き出して、庭の植木に水をやっていた芳太郎が、橋廊下の下の方にたたずんで、莨を喫《ふか》しながらうッとりした顔をしていた。廊下に雑巾《ぞうきん》がけをしていた年増の方の女中が、手を休めて手擦りに凭《もた》れながら、芳太郎と何やら話しているところであった。
「お客さまはもうお帰りですか。」と、女中は落ちかかった着物の裾を帯の間へ押し込んで、また働きはじめた。西日を受けた廊下の板敷きは、砂埃でざらざらしていた。
「ちょいと勘定なんですがね。」と、お庄は立ち停って、芳太郎に声かけた。
帳場へ上って来た芳太郎の目には不安の色があった。
「お前にあんな親戚があるなんて、何だかおかしいじゃないか。」と、芳太郎は書付けを書きはじめながら詰《なじ》った。
「私にだって親類がありますよ。」と、お庄は顔を赧《あか》めながら言った。
「それじゃお前の何に当る人だ。」
お庄はへどもど[#「へどもど」に傍点]して、もう口が利けなかった。目にも涙が出た。
「お前の親類が、座敷へあがって酒を飲むなんて、変じゃないか。」
「え、だから皆さんにもお目にかかるって、そう言ったんですけれど、阿母さんは加減がわるいし、あなただって、今まで寝《やす》んでいらしったじゃありませんか。またそれほど近しい親類でもないんですもの。あの人が思いがけなくここを通って、ちょっと寄ったまでなんです。」
「うまく言ってら。四ツ谷へ行って聞いて見るからいいや。」
「え、いいんですとも。私そんな嘘なぞ吐《つ》きゃしませんよ。」
しばらく言い合ったが、お庄は秘《かく》し逐《おお》せないような気がした。そして袂《たもと》で顔ににじみ出る汗を拭きながら、黙って裏口の方へ出て行った。
女中に呼びに来られて出て行った時分には、磯野は書付けを前に置いて、座敷にぼんやりしていた。お庄は目に涙を一杯溜めていた。
「どうかしたの。」と、磯野は薄笑いをしていた。しばらくしてから、勘定が足りなくて、磯野のもじもじしていることが解った。
「勘定
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