で口走った。これまでにも、酔って正体がなくなると、芳太郎は、時々そうした口吻《くちぶり》を洩らした。
お庄は暗い窓の外を眺めながら、顔に笑っていた。
新宿まで来た時、お庄はとうとう一緒に降りることにした。そうでもしなければ、男を撒《ま》くことが出来ないと考えた。
停車場を出ると、二人は並んで暗い片側町を歩いていた。芳太郎は時々|気狂《きちがい》の発作のように、お庄の手を引っ張って、明りの差さない草ッ原に連れ出した。足場の悪い草叢《くさむら》にはところどころに水溜りが、ちらちらと空明りに黒く光った。お庄はけたたましい声を立てながら、芳太郎の手に掴まってそこを渉《わた》った。四方《あたり》はシンとしていた。
広い通りへ出ると、両側の妓楼《ぎろう》の二階や三階に薄暗い瓦斯燈《ガスとう》が点《とも》れて、人影がちらほら見えた。水浅黄色の暖簾《のれん》のかかった家の入口からは、周《まわ》りに色硝子の障子の嵌《はま》った中庭や、つるつるした古い光沢《つや》のある廊下段階子などが見透《みすか》された。芳太郎は時々そこらの門口に立ち停った。
「今夜中に、私きっと帰ってよ。」と、お庄がやっと芳太郎と手を分ったのは、それから大分経ってからであった。
お庄は大木戸から俥をやとって、荒木町の方へ急がせた。二度と帰って来るような気がしていなかった。
七十四
荒木町の家では、従姉《あね》が相変らず色沢《いろつや》の悪い顔をして、ランプの薄暗い茶の間に坐っていた。いつも気が浮き浮きしたということもない従姉《あね》の、髪一つ綺麗に結った姿をお庄は見たことがなかった。
「またどうかしたんですか。」と、お庄は気遣わしげに訊《き》いた。
「いいえ。相変らずぶらぶらしているもんですからね。」と、従姉《あね》はぽきぽきしたお庄の顔を眺めた。行った時から見ると、どこかお茶屋風になっているのも目についた。
浅山は、このごろしばらく帰朝している姉婿の家へ行っていて、留守であったが、台所にいた伯母は、手を拭きながらすぐに傍へ寄って来た。
「お前もそうしていいところへ片着いて、どんなに幸福《しあわせ》だか知れやしないわね。」と、お饒舌《しゃべり》の伯母は独りでお庄の身の上をうらやましがった。浅山の月給が細いのに、娘が始終寝たり起きたりしているので、長いあいだ胃が持病の自分が、六十|幾歳《いくつ》になってこうして立働きもしなければならぬという愚痴が、じきに始まった。
「私が寝てばかりいるもんだから、浅山にも気の毒でね。」と、従姉《あね》も萎《しお》れて言った。
浅山が、今の役所を罷《や》めて、今度の帰朝を幸いに姉婿の方へ使ってもらう運動をしているのだが、それがうまく行きそうにもない様子が、母子《おやこ》の口から洩れた。
お庄は伯母と従姉《あね》が、着るものを着ないでも、膳の上にうまいものの絶えたことのないのを知っていた。伯母が浅山と同じに、刺身などに箸をつけながら、ちびちび晩酌をやっていることもめずらしくなかった。お庄はこの人たちの貧乏するのに不思議はないと思った。
「……少し媒介人《なこうど》に瞞《だま》されたようですよ。」と、お庄は帯の間から莨入れを取り出して、含嗽莨《うがいたばこ》をふかしながら言い出した。
「始終家が揉《も》み合っているものですし、あの人だってちっとも柔順《おとな》しかありませんよ。」
「それでもいい男だという話じゃないかえ。――酒癖でも悪いと言うのかい。」と、伯母は切り髪頭の、長い凋《しな》びた顔を顰《しか》めながら言った。
お庄は思っていることを、話すことも出来なかった。
芳太郎を嫌っているお庄の心持は、従姉《あね》によく解った。
「老人《としより》の思うようじゃないんですよ。」と、従姉《あね》は、お庄の顔をじろじろ眺めながら、薄ら笑いをしていた。
「でもまア辛抱していさえすれば、あの家も始終はお前たち夫婦のものだでね。」
「そうは言っても、欲ばかしにかかってもいられませんよ伯母さん。」
鮨《すし》を少しばかりおごって、茶呑み話にごまかしていながら、お庄はしみじみした話もしずに、やがてそこを出た。
「浅山から、中村さんによく話してもらって上げるからね、自棄《やけ》を起さないで、まア当分辛抱した方がいいでしょう。」
帰りがけに、従姉《あね》はお庄の様子を気遣いながらそう言った。お庄がお照の稼《かせ》ぎに行っている茨城の方へでも行けば、自分の体一つぐらいは、自分の腕一つで、どうにでもして行けると言ったことが、従姉《あね》にも気にかかった。
「今夜は家へお帰りよ。心配さしても悪いでね。」と、伯母も門口まで送って出ながら行った。
外はもう更けていた。そこらの芸妓屋や、劇場の居周《いまわ》りも静かであった。お庄は暗い町をすごすごと歩いていたが、どこへ行くという的《あて》もなかった。
伝馬町の方へ出ようとする途中で、二、三度車夫に声をかけられたが、乗る決心もつかぬうちに、皆なやり過してしまった。
停車場へ来たのは、もうよほど晩《おそ》かった。構内には、疲れたような人の姿がちらほら見えていた。お庄は薄暗い隅の方のベンチに腰を卸《おろ》しながら、上り下りどっちの切符を買おうかと思案していた。
七十五
その晩お庄は本郷の方に泊った。
ちょうど正雄が来合わせていて、姉弟《ふたり》は久しぶりで顔を合わした。正雄はこれまでにも二度ばかり親方を取り替えた。体の弱いので、あまり仕事の劇《はげ》しい家では、辛抱がしきれなかった。お庄はそのたびに弟をつれて、前の主人へ話をつけたり、新しい洋服店へ交渉したりした。今の家は女主《おんなあるじ》であった。その主人はお庄のところへも遊びに来て、一緒に花など引いたこともあった。
正雄は脚気で蒼い顔をしていた。お庄の変った様子を見て、にやにや笑っていたが、お庄も弟の様子がめっきり落ち着いて来たと思った。
「医師《いしゃ》が転地しろと言うそうで。」と、母親は一番体が弱くて可愛い正雄のことで先刻《さっき》から気を揉んでいた。
「しばらく田舎へでもやらずかと思うけれど……そうすれば叔父さんも一緒に行くと言うでね。――叔父さんも梅雨《つゆ》が体に障《さわ》ったようで、あれからずッと工合が悪いで、どうでも田舎へ帰ると言って、今その支度中さね。」母親は火鉢に凭《よ》りかかっていながら、屈托そうな顔をして、火箸で火を弄《いじ》っていた。
家の荒《さび》れている様子が、ひしひしお庄の胸に感ぜられた。お庄が行くとき傭《やと》い入れた女中の姿も見えず、障子の破けた台所の方もひっそりして、二階にも人気がなかった。掃除ずきな自分がいなくなってから、そこらのだらしなく汚くなった状《さま》も、心持悪いようであった。
この家を早晩畳まなければならぬことは、行く時分からお庄にも解っていたが、また帰って来てここを盛り返したいような気も、時々しなくもなかった。
母親は、ここの雑作が売れ次第、借金を少し片着けて、それから田舎へ行きたいと言っている叔父のことや、お庄が行ってから、ここへ寄り着く人もめっきり少くなったことなどを言い出した。叔父が会社にいた時分の連中も、近ごろはとんと顔出しをしなくなったし、ちょいちょい金を貸してあった人たちも、かんぎら[#「かんぎら」に傍点]ともしなかった。
そんな話が長く続いて、母子《おやこ》の目はいつまでも冴《さ》えていた。
「姉さんの家はどんなとこだえ。」と、弟はもう捲莨《まきたばこ》などを喫《ふか》して、お庄に訊いた。
「今までのように、不断にお鳥目《あし》を使ったり何かしちゃいけないからって、今阿母さんともその話をしていたのさ。」
「それアそうさ。私だってそんな白痴《ばか》じゃないよ。」と、お庄は磯野との関係以来、自分がさもだらしのない女のように、衆《みんな》に思われているのが切なかった。誰よりも一番苦労をして来たことも考え出された。
「見かけによらない、私はこれで苦労性ですよ。」と、お庄は長い指に莨を揉んで、煙管に詰めながら言った。話そうと思って来たことを、二人の前に打ち明けることも出来なかった。
「何だか知らないけれど、皆な運が悪い。」と、母親は、この家が畳まれてからの、自分の体の行き場のないことを零《こぼ》した。
「湯島で来ておれと言うだけれど、たびたびのことだし、そうも行かないでね。」
衆《みんな》のまごついているのを、田舎に傍観している父親のことが、また噂された。廃《すた》れ株《かぶ》の買占めで失敗《しくじ》ってから、家のばたばたになった本家の後始末に気骨を折っている父親が、このごろは皆なの思うほど気楽でもないことは、こっちへも解って来た。本家が銀行から差押えを喰って、ぴたぴた庫《くら》を封ぜられ、若い主《あるじ》が取り詰めたようになって気の狂い出したという消息の伝わったのは、お庄が行ってから間もないことであった。
頭脳《あたま》に異状のある本家が、わざわざ町から診察に来た医師《いしゃ》の頭を、撲《なぐ》り飛ばしたということを言い出して、正雄もお庄も、腹を抱えて笑った。
宵から奥で寝ている叔父が、目をさましたと見えて、力ない咳《せき》の声が洩れて来た。
七十六
家へ帰って行ったのは、その翌々日の午後であった。それまでお庄は伯母の家へ行ったり、親しい近所の家を訪ねたりして遊んでいた。伯母の家では、相変らず皆と花など引いたが、その間も心は始終今の家に辛抱していいか悪いかということについて思い惑うていた。
「前途《さき》に見込みがないから、私もうあすこを逃げてしまおうかとも思っているんです。」と、お庄は思い断《き》って伯母や糺にも、自分の心持を打ち明けてみたが、二人ともあまり真面目に聞いてもくれなかった。
「そんなことを言って、今家へなんか帰ってどうするつもりだい。」と、伯母は頭ごなしに言って、先の家の深い事情などは、ろくろく考えもしないらしかった。
「むやみなことをして、中へ入った浅山の顔を潰《つぶ》すようでも悪いじゃないか。」と、糺も言った。
始終聞きたい聞きたいと思い続けていた磯野やお増のことを、お庄は時々言い出そうとしたが、それも詳しくは二人の口から聞き出すことが出来なかった。
「何だかまた別れたとかいう話だぜ。」と言って糺は笑っていた。
芳村が前からよく行きつけていた碁会所の娘と約束が出来て、そこへ荷物を持ち込んで引っ越すようになってから、お増がまた気を焦《あせ》って、このごろでは磯野の手を離れて、芳村との関係が旧《もと》へ復《かえ》ったとか、芳村がお増をどこかに隠しておくとかいうことだけは、糺の話でも解った。お庄は磯野と自分との縁が、またどこかで繋がれていそうな気もして、もどかしいようであったが、こっちから訪ねて行く心にもなれなかった。
お庄は、叔父がいよいよ田舎へ帰るようになったら、ちょっと報《しら》してほしいとそのことを母親に頼んで帰って行ったが、途中で小石川の伝通院前の赤門の家で占いの名人のあるということを想い出して、ふとそこへ行って観《み》てもらう気になった。占いやお神籤《みくじ》はこれまでにも、たびたび引いて見たことがある。磯野との縁が切れそうになった時も、わざわざ水天宮で御籤《みくじ》を引いた。その時の籤はそんなに悪くもなかったが、三十過ぎるまでは、心に苦労が絶えないというようなことは、一、二度|売卜者《うらない》にも聞かされた。着ることや食うことには大して不足もないが、処《お》るところがまだ決まらないというようなことも言われた。
赤門ではその日がちょうど休日《やすみ》であった。お庄はさらに伝通院横にある、大黒の小さいお寺へ行って、そこに出張っている法師《ぼうず》に見てもらうことにした。
派手な衣を着けて、顔のてらてらしたその法師《ぼうず》は、じろじろお庄の顔を見い見い水晶《すいしょう》の数珠玉《じゅずだま》などを数えていたが、示されたことはあまり望ましいことでもなかった。法師は古びた易書を繰って
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