二人で昨夜《ゆうべ》の膳椀や皿小鉢の始末をしていた。筒袖《つつそで》に三尺を締めて、土間を掃《は》いている男衆の姿も目に着いた。
 従姉《あね》が起きて来た時分には、母屋の方の座敷も綺麗に掃除が出来て、麗《うらら》かな日影が畳のうえまで漂ういていた。床の間には、赤々した大きい花瓶に八重桜《やえざくら》が活けられて、庭のはずれの崕《がけ》からは鶯《うぐいす》の声などが聞えた。
 二人で縁端《えんばた》に坐っていると、女中が蒲団を持って来たり、朝茶や梅干《うめぼし》を運んだりした。
「花の時分は随分忙がしござんしたよ。小金井ももう駄目でしょうよ。」と、女中は茶を汲《く》みながら、お庄の顔をじろじろ見た。
「姐《ねえ》さんはどこ……。」などと、従姉《あね》は珍しそうに女中の相手になって、離房《はなれ》の普請を賞めなどした。
「私もこれからちょいちょい寄せてもらいましょう。こんなところで一日も遊ばしてもらえると、どんなに気が晴れ晴れするか知れやしない。」
「ええ、東京から皆さん随分いらッしゃいますよ。」
 媒介人《なこうど》や浅山の起き出した時分に、また迎え酒が始まった。昨夜《ゆうべ》店の方に構え込んでいて、あまり座敷へ顔出しをしなかった親父も、そこへ来て一緒に飲んだ。お庄は従姉《あね》と一緒に、離房《はなれ》の方の二階座敷へ上って見たり、庭を逍遥《ぶらつ》いたりした。
 芳太郎のことが、従姉《あね》の口からいろいろ訊《たず》ねられた。
「この家で衆《みんな》に思わるれば、お庄さんも幸福《しあわせ》だよ。婿さんは若くて幼《うぶ》だし、物はあるしさ。」と、従姉《あね》は手擦《てす》りに凭《もた》れていながらうらやましそうに言った。
 お庄は男の無作法さが腹立たしかった。「あまりそうでなさそうなの。家も随分ごたごたしているようですよ。」お庄は赧《あか》らんだ顔に淋しく笑った。

     七十一

 躑躅《つつじ》の時分に一度ここへ寄って、半日ばかり遊んで行った外神田の洋服屋だとかいう男が、どこかの帰りに友達を一人連れて来て、新建ちの方の座敷で、女中を相手に無駄口を利きながら酒を飲んでいた。そこへお庄も酌に出された。
 来た当座|丸髷《まるまげ》に結って、赤い手絡《てがら》などをかけているのが、始終帳場に頑張っている親父の気に入らないことが、素振りでも解って来た。そんなことを口へ出して言うこともあった。
「こんな客商売をする家へ来たら、お前もちっと気を利かさなくちゃいけないよ。」
 お庄はお袋の指図で、浅草にいたころ挿したような黄楊《つげ》の櫛《くし》などを、前髪を広く取った島田髷の頭髪《あたま》に挿さされた。そして手の足りない時は、座敷へ出て客の相手をもしなければならなかった。
「あんたはここの家の何です。」と言って客に訊《き》かれると、お庄はいつも曖昧《あいまい》な返事をして笑っているのが切なかった。お袋に教わった通りに、ここの養女だということが、慣れて来るまでは口へ出なかった。
 親父もお袋も、血を引いていない子息《むすこ》の芳太郎のことをあまり気にかけてもいなかった。芳太郎の生みの母親が、いつかどこからか帰って来はしないかということも、始終|気遣《きづか》われた。この家を芳太郎に譲れば、自分たちはやがてここから逐い出されて行かなければならぬようなことがないとも限らぬと不安のある様子も、お庄の心に感じられて来た。
 お袋は土間へ降りてビールや正宗の空罎《あきびん》を、物置へしまい込んでいるお庄の側へ来て、
「こんな物は皆なお前にあげるよ。三月も溜めておいちゃ空罎屋へ売るんですがね、どうして大きいものですよ。お前はそのお鳥目《あし》を自分のものにして除《の》けておおきよ。これまでは芳の儲《もう》けにしておいたけれど、彼《あれ》にやったって皆な飲んでしまうから何にもなりゃしない。」と言って、薄暗い物置の中を窺《のぞ》いていた。
 お袋は、これまでに骨折って、幼《ちいさ》い芳太郎を育てて来ても、芳太郎の頭脳《あたま》にはまだ田舎にいる母親のことが、時々憶い出されているということや、今の親父と折合いの悪いことなどを言い出して零《こぼ》した。お袋の口ではこの界隈で顔利きの親父が、帳場にでも坐っていてくれなければ、一日もこんな商売がして行かれないということであった。
「それでお前さえ柔順《おとな》しく辛抱してくれれば、私は何でもして上げるよ。芳太郎が厭なら厭でもいいのさ。彼《あれ》に身上を配《わ》けて別家さして、お前に他から養子をしたっていいんですからね。」
 お庄は空罎の積みの前に立って、「え、え。」と言って聴いていたが、ぽつぽつ痘痕《あばた》のような穴のあるお袋の顔が、薄気味わるく眺められた。四、五日前に、親父がどこからか、延べの指環を一つ持って来てくれた時も、同じようなことを聴かされた。相談ずくで、自分を店の売り物にしようとしているような二人の心持が、ようやく見えて来たようにも思えた。
 洋服屋が前に来て騒いだ時も、お庄は着物など着替えさせられて、座敷へ出された。その男は酒に酔うと浮かれて唄《うた》など謳《うた》い出した。そして帰りがけに、衣兜《かくし》から名刺を取り出して、お庄にくれた。名刺には高等洋服店|何某《なんのなにがし》と記してあった。
 洋服屋は、今日もお袋にちやほやされて、養女のお庄を相手に騒いでいた。お庄は銚子《ちょうし》を持って母屋《もや》の方へ来たきり、しばらく顔出しをしずにいると、また呼び立てられて、離房《はなれ》の方へ出て行った。
「お客さまの前へはあまり出さないことにしておりますものですから……。」と、お袋はお愛想を言いながら、入れ替りに部屋を出た。

     七十二

 暮れてから客が引き揚げて行くと、家が急に淋しくなった。お庄も強いられた酒の酔いがさめかかって来た。取り散らかった座敷を片着けている女中を手伝いがてら、二階へ上って手擦りに凭《よ》りかかっていると、裏の田圃《たんぼ》で啼《な》き立てている蛙《かえる》の声が耳について、頭脳《あたま》が掻き乱されるようであった。いつもそのころになると、お庄は東京を憶い出していた。
 ここへ来る少し前に、茨城の方から叔父のところへ長い手紙をよこしたお照のことなどが、思い浮べられた。叔父が悪い病気に罹《かか》ってからも、一日も傍を離れなかったお照は、田舎から持って来た着物までなくして、終《しま》いにやりきれなくなって、姿を隠してしまった。それが茨城まで流れて行ったことは、叔父も知らなかった。手紙には相変らず狂気《きちがい》じみた文句ばかり並べてあったが、何をして暮しているかということを考えると、人事のようにも思えなかった。 
 女たちは、そこに置き忘れて行った敷島を吸いながら、客の品評《しなさだめ》などをし合っていた。この女たちも方々を渉《わた》り歩いて、いろいろの男を知っていた。いつもよく来る中野の隊の方の、若い将校連の風評《うわさ》なども出た。
 こんな連中にも評判のいい洋服屋の様子は、お庄にも悪くはなかった。男はお庄に東京へ出たら、是非店へ遊びに来いと言って、そこを委《くわ》しく教えてくれた。お庄のこともいろいろ聞きたがった。お庄は女たちにそのことをいろいろ言われた。
「私はあんなのッぺりしたような人嫌いですよ。」と、お庄は顔を背向《そむ》けながら言った。
「それでも家の芳ちゃんよりかもいいでしょう。」と、年増の方の女は、そこにべッたり坐っていた。
「芳ちゃんも可哀そうね。」と、若い方の女は、餉台《ちゃぶだい》の上を拭きながら呟いた。
 八時ごろに、お庄はお袋に断わって、ちょっと四ツ谷まで出かけた。何だか今夜は家にじッとしてもいられなかった。
 停車場まで来ると、前の床屋で将棋仲間に加わっていた芳太郎が、すぐにお庄の姿を見つけた。お庄が客の前へ出るのを、芳太郎は快く思わなかった。そんな時にはきっと料理場で菰冠《こもかぶ》りの飲口を抜いてコップで酒を呷《あお》ったり、お袋に突っかかったりした。そうしたあげくに、金を掴《つか》みだして、ぷいと家を飛び出して行った。手近に金のない時は、板片《いたぎれ》の端に黐《もち》をつけて、銭函《ぜにばこ》の中から銀貨を釣り出した。
「家のものは皆な己《おれ》のものだ。己の物を己が持ち出すに不思議はない。」
 芳太郎はこう言って、銭函の前に、どかりと胡坐《あぐら》をかきながら、銀貨の勘定をしていた。
「それが厭なら、身上を速く己に渡すがいいんだ。」と、駄々を捏《こ》ねた。
 親父は苦い顔をして、帳場の方で見ぬ振りをしていた。
「誰がこの身上を作ったとお思いだい。莫迦《ばか》お言いでないよ。」と、お袋はたしなめたが、強いて止めることも出来なかった。お庄が来る少し前に、親子の間《なか》が揉《も》めてしばらく家を出ていた親父を、また引っ張り込もうとして大喧嘩をした時、外から食《くら》い酔って帰って来た芳太郎に、刃物を振り廻されたことが、お袋にも気味が悪かった。
 芳太郎は金を持ち出して行くと、宿《しゅく》の方へ入り浸って、二日も三日も帰らなかった。お庄が来てからも、新婦《にいよめ》の仕打ちに癇癪《かんしゃく》を起して、夜中に家を飛び出すこともめずらしくなかった。
 お庄はぷりぷりして出て行く芳太郎を送り出すと、そっと戸締りをして、また寝所《ねどこ》へ復《かえ》った。そして楽々と手足を伸ばして甘い眠りに沈むのであった。
「おいおい。」
 床屋の店から、芳太郎が声をかけた。お庄は黙って行き過ぎようとした。

     七十三

「おい、お前どこへ行く。」と、芳太郎は後から追いかけて来た。
「四ツ谷の従姉《ねえ》さんのとこまで行って来ますの。」と、お庄は振り顧りながら言った。
「何しに行くんだい。」芳太郎は釈《と》けかかった太い白縮緬《しろちりめん》の兵児帯《へこおび》をぐるぐる捲《ま》きつけながら、「お前今夜は帰りゃしないんだろう。己も一緒に行こう。」
「人に嗤《わら》われますよ。」と、お庄は後歯《あとば》の下駄を鳴らしながら、停車場へ入って行った。
 お庄が切符を買うと、芳太郎も鰐口《がまぐち》から金を出して同じように四ツ谷行きを買った。
「一緒に行ったり何かして、後で叱《しか》られてもいいんですか。」お庄は念を押しながら埒《らち》の外へ出て行った。
 お庄は内密《ないしょ》で、従姉《あね》にいろいろ話したいこともあった。この前にもちょっと従姉《あね》の耳へ入れておいた家の様子や自分の立場について、媒介人《なこうど》の利いた口と大した相違のあることを、今一度委しく話して見たかった。
「いいんだよ。」と、芳太郎は耳に挟んでいた両切りの莨に火を点《つ》けて吸いながら、お庄の傍を離れなかった。帽子も冠《かぶ》らない顔が蒼白く、目の色も澱《おど》んでいる。二人はこのごろ、ろくろく話をするような折もなかった。芳太郎は昼間も酒の気を絶やさず、夜はまたふらふらとそこらをほつき廻り、友達と一緒に宿場を騒《ぞめ》き歩いた。
 お庄は時々お袋からいいつかって、心の荒びたような男の機嫌をも取らなければならなかった。
 座敷の閑《ひま》な時は、お庄も寄りついて来る芳太郎と一緒にたまには打ち釈《と》けた話をすることもあった。隠し立てのない芳太郎の口から、お袋や親父の噂を聞き出すのも興味があったし、芳太郎の関係した女のことを知るのも面白かった。
「お前が出て行けア、己だって家にアいねえ。」と、芳太郎は駄々《だだ》ッ児《こ》のように言い出した。
 そんなところを見つけると、お袋はすぐに厭な顔をした。
「ふざけていちゃいけないよ。」と、お袋は呶鳴《どな》りつけて、お庄に用事をいいつけた。
 酒で頭脳《あたま》の爛《ただ》れたようになっている芳太郎は、汽車のなかでも、始終いらいらしていた。そして時々独り語《ごと》のような棄て鉢を言った。金を掻《か》っ浚《さら》って家を逃げ出してくれるとか、お袋を撲《なぐ》り殺して高飛びをするとか、そんなことをすらお庄の耳元
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