るくなった。人の影もちらほら見えていた。ぐっしょり雨に濡れたお庄は、灯影を避けるようにして、揚場《あげば》の方へ歩いて行った。
 湯島の家へ着いたのは、もう九時ごろであった。元町の水道の傍《わき》を通るとき、すれすれに行き違った背の低い男が一人あった。お庄は傘の下から、ふっと顔を出すと人家の薄明りに、ちらと見えた白いその男の顔が、芳太郎であることに気がついた。お庄は息が塞《つま》るような心持で、急いで堤《どて》について左の方へ道を折れた。店屋の立て込んだ狭い町まで来た時、お庄は冷や汗で体中びっしょりしていた。
 湯島の家では、衆《みんな》が入口まで出て来て、異《ちが》ったお庄の姿や、真蒼《まっさお》なその顔を眺めた。お庄は上り口でインバネスを脱ぐと、がっかりした体を這《は》うようにして流しの方へ出て行った。
「芳が今ここへ俥で駆けつけ尋ねて来たぞえ。」伯母はお庄の顔を見るなり、言い出した。
「やっぱりそうでしょう。」と、お庄は呼吸《いき》がはずんで、口が利けなかった。
 その晩は早くから戸を締めた。
 母親が、二、三日前から余所《よそ》へ手伝いに行っていることが、伯母の話で解った。その家が、近所の知人《しりびと》のまた知人《しりびと》の書生の新世帯であることも話された。
「正雄が店でも持つまで、人中へ出て苦労してみるもよかろうず。」伯母はこうも言った。
 翌日午後《あしたひるから》、四ツ谷の家から、老人《としより》が着替えを二、三枚届けてくれてから、お庄は独りで世帯を切り廻したことのない母親の身の上も気にかかったし、この先自分の体の振り方も会って相談して見たいと思った。後から暗い影の附き絡《まと》っているような東京を離れて、独りで遠くへ出るにしても、母親の体の落着きを見届けておかなければならぬとも思った。
 お庄はジミな絣に、黒繻子《くろじゅす》の帯などを締めて、母親を世話した近所の家まで訪ねて行った。
 その家は氷屋であった。主《あるじ》はお庄たちと同じ村から出た男で、兜町《かぶとちよう》の方へ出ていた。お庄の父親とも知らない顔でもなかった。
 母親のいる家は、伝通院のすぐ下の方の新開町であった。場末の広い淋しいその通りには、家がまだ少かった。出来たてのペンキ塗りの湯屋の棟が遠くに見えたり、壁にビラの張られてある床屋があったりした。
 四、五軒並んだ新建ちのうちの一つが、それであった。まだ木の香のするようなその建物について、裏へ廻ると、じきに石炭殻を敷き詰めたその家の勝手口へ出た。
 新壁の隅に据えた、粗雑《がさつ》な長火鉢の傍にぽつねんと坐り込んでいる母親の姿が、明け放したそこの勝手口からすぐ見られた。台所にはまだ世帯道具らしいものもなかった。裏は崖下《がけした》の広い空地で、厚く繁《しげ》った笹《ささ》や夏草の上を、真昼の風がざわざわと吹き渡った。
 お庄は母親の隠れ家へでも落ち着いたような気がして、狭い茶の室《ま》へ坐り込んで日の暮れまで話し込んでいた。



底本:「日本の文学9 徳田秋声(一)」中央公論社
   1967(昭和42)年9月5日初版発行
   1971(昭和46)年3月30日第5刷
入力:田古嶋香利
校正:久保あきら
2003年2月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全28ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング