た。
「昨夜《ゆうべ》の人に返す金の工面にでも行ったろうえ。」
二人は、また叔父の噂をしはじめた。叔父が遊んでいる女に費《つか》う金だけでも、このごろの収入では追っ着きそうなこともなかった。応募者が、予期した十分の一もなかったことが、女連にもだんだん呑《の》み込めて来た。
事務員が、寝飽きたような腫《は》れぼッたい顔をして、暗い三畳の開き戸を開けて出て来た。そして目眩《まぶ》しそうな目を擦《こす》った。綻《ほころ》びた袖口からは綿が喰《は》み出し、シャツの襟も垢《あか》や脂《あぶら》で黒く染まっていた。お庄はくすくす笑い出した。この男がここへ来てから、もう三月《みつき》にもなった。
「もう何時です。」事務員は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って時計を眺めた。
それから水口の方へ出て顔を洗うと、間もなく膳の側へ寄って来た。紫色に爛《ただ》れたような面皰《にきび》が汚らしかった。
飯がすむと、お庄は二階へあがって叔父の寝所《ねどこ》を片着けにかかった。冬の薄日が部屋中に行《ゆ》き遍《わた》っていた。お庄は蒲団や寝衣《ねまき》を持ち出して手擦《てす》りにかけながら、水に影の浸った灰問屋の庫《くら》が並んだ向う河岸《がし》をぼんやり眺めていた。
五十五
向う河岸は静かであった。倉庫で働いている男や、黙って荷積みをしている人夫の姿が、時々お庄の目に侘《わび》しく映った。碧黒《あおぐろ》くおどんだ水には白い建物の影が浸って、荷船が幾個《いくつ》か桟橋際《さんばしぎわ》に繋《つな》がれてあった。お庄はもう暮が近いと思った。
部屋を掃除してから、雑巾バケツに水を張っていると店頭《みせさき》で事務員と押し問答している、聞きなれぬ声が耳についた。会員から、会費の払い戻し請求を受けているのだということがすぐに解った。台所を働いている母親も、茶の室《ま》へ出て、気遣《きづか》わしそうに店の方へ耳を引き立てていた。勤め人とも商人ともつかぬようなその男は、社主に逢いたいと言って、物慣れぬ事務員を談じつけているらしかった。
「いやだいやだ、叔父さんは……。」と、お庄はこの前のことを思い出した。
「だって叔父さんが一人で引き被《かぶ》るわけのものでもあるまいがね。」と、母親も台所の隅に突っ立って溜息を吐《つ》いていた。
お庄は、この家をいつ引き払うことになるか解らないと思った。拭き掃除をする気にもなれなかった。そしてバケツをそこへ投《ほう》り出したまま、うんざりしていた。
叔父は出て行ったきり、二、三日家へ寄りつきもしなかった。
その間に中学の先生だという例の男が、二度も来て店へ坐り込んでいた。お庄は色の褪《あ》せたインバネスに、硬い中折を冠ったその姿を見ると、またかと思って奥へ引っ込んで行った。火の気の少い店頭《みせさき》で、事務員はこの男と日が暮れるまで向い合っていた。男は近所の蕎麦屋《そばや》へ行って、空《す》いた腹を満たして来ると、赤い顔をしてまたやって来た。
「まだお帰りになりませんか。どこか心当りはありますまいかね。」男は楊枝《ようじ》で口を弄《せせ》りながら、奥を覗《のぞ》き込んで、晩飯を食べている三人の方へ声をかけた。
「ああして来て待っているのに、あんまりうっちゃり放しておいてもね。」と、お庄は晩飯をすますと、顔を直したり、着物を着替えたりして、仕立て直しの叔母の黒いコートを着込んで、叔父を捜しに出かけた。
しばらく出なかった間に、町はそろそろ暮の景気がついていた。早手廻しに笹の立った通りなどもあった。賃餅の張り札や、カンテラの油煙を立てて乾鮭《からざけ》を商っている大道店などが目についた。
やがて湯島の伯母の家の路次口に入って行ったのが、九時近くであった。
「私のとこへは、小崎はまだ葬式《とむらい》の挨拶にも廻って来やしないぜ。」と、伯母は二階から降りて来て、火鉢の前に坐ると、めかし込んだお庄の様子をじろじろ眺めた。
「何だか会社を始めるとか、始めたとかいうことを聞いたが、そんな投機《やま》をやってまた失敗《しくじ》らなけアいいが。」伯母は苦い顔をしてこうも言った。
二階で糺の友達が多勢寄って花を引いていた。お庄はしばらく、そんな音を聞いたことがなかった。
「お前いくらか懐にあるだかい。」花には目のない伯母がにやにや笑いながら、段梯子を上って行くお庄に言いかけた。
その晩おそくまで、お庄はそこで花を引いていた。取られ分を取り復《かえ》そうと焦心《あせ》っているうちに、夜が更けて来た。連中には古くから昵《なじ》みの男もあり、もう髭を生やして細君を持っているらしい顔もあった。お庄はそんな中に交って燥《はしゃ》いだ調子で弁《しゃべ》ったり笑ったりした。
明日《あした》昼ごろに、お庄は金六町の家へ帰って来ると、昨夜《ゆうべ》帰った叔父が二階にまだ寝ていた。三和土《たたき》に脱いである見なれぬ女の下駄がお庄の目を惹《ひ》いた。
「……芸者だか何だか……。」と、母親は笑っていた。
五十六
お庄らが母子《おやこ》の仕事として、ひっそりした下宿を出そうと思いついたのは、この事務所を畳んでから、一家が丸山の隣の小さい借家へ逼塞《ひっそく》してからであった。それまでに会社の方はパタパタになっていた。欠損を補うべき金や、下宿の資本《もと》を拵えると言って、叔父は暮に田舎へ逃げ出したきり、いつまでも帰って来なかった。
河岸《かし》の家で、叔父が一、二度二階へ連れ込んで来た女が、丸山の田舎の嫂《あによめ》の姪《めい》であることが、お庄母子にじきに解った。その女はお照と言って年はお庄からやっと一つ上の十九であったが、もう処女ではなかった。東京へ出るまでには思い断《き》ったこともして来た。
丸山の隣へ引っ越して行ってから、この女とお庄はじきに近しい間《なか》になった。女は痩せぎすな※[#「※」は「兀+王」、第3水準1−47−62]弱《ひよわ》いような体つきで、始終黙ってはずかしげにしていたが、表に見えるほど柔順《すなお》ではなかった。お庄にはどこか調子はずれのところがあるようにも思えた。叔父は丸山へ行って碁を打っているうちに、この女と親しくなった。女は碁もかなりに打てたが、字なぞも巧《うま》かった。
一ト晩中、女は安火《あんか》に当って、お庄母子に自分のして来たことを話して聞かした。田舎で親々が長いあいだ取り決めてあった許婚《いいなずけ》の人を嫌《きら》って北国の学校へ入っている男を慕って行った時のことなどが詳しく話された。女は暑中休暇に帰省している親類先のその男の家へ、養蚕の手助けに行っているうちに、男と相識《あいし》るようになった。
男が学校へ帰って行ってから間もなく、女は目ぼしい衣類や持物を詰め込んだ幾個《いくつ》かの行李をそっと停車場まで持ち出して、独りで長い旅に上った。
「その時のことは、今から想《おも》うとまったく小説のようよ。」と、女は汽車のない越後から暗い森やおそろしい河ばかりの越中路を通るとき、男に跡を尾《つ》けられたことや脅迫されたことなどを話した。
制裁の厳《きび》しい寄宿に寝泊りしていた男は、一、二度女の足を止めている宿屋へ来て、自分の事情を話して帰ったきり、幾度訪ねても逢わなかった。手紙を出しても来なかった。
三月ほど経って、兄が女を連れ戻しに行ったころには、女は金も持物もなくして、霙《みぞれ》の降る北国の寒空に、着るものもなくて、下宿屋に下女働きをしていた。田舎へ引き戻されてからも、町に落ち着いていることも出来なかった。許婚先へ対しても、家にいるのがきまり悪かった。
「どうせ私は田舎などへ帰りゃしませんよ。嫁にだって行きゃしません。家で怒ってかまわなくなったって何でもありゃしない。金沢で下宿の厠《はばかり》の掃除までしたことを思や、自分一人ぐらい何をしたって食べて行かれますよ。」女は太腐《ふてくさ》れのような口を利いた。
「一人でやって行くなら、碁会所でも出したらどうだ。」叔父はこの女に時々そんな心持も洩らした。
「彼奴《あいつ》も変だが、小崎さんも少しひどいや。」と丸山は、叔父の田舎へ行っている留守に、折々茶を呑みに来ては、お照の噂をして母親に厭味を言った。
女はお庄の家へ来て、机に坐って叔父へ長い手紙を書いた。手紙にはお庄に解らないようなむずかしいことが書いてあった。女は小説でも読むような気取りで、母子にその文句を読んで聞かせた。お庄は狂気《きちがい》じみたその顔を瞶《みつ》めながら笑い出した。
叔父から返事が来た。女は手紙の字が巧いと言って、独りで感心していた。
「あなたの叔父さんは真実《ほんとう》に深切よ。」
「深切だか何だか知らないけれど、家の叔父さんはもうお爺さんよ。」
「お爺さんだっていいじゃないの。一生一つにいやしまいし……。」
五十七
繁三をつれて、三月の東京座を見に行った叔父が、がちがち顫《ふる》えて帰って来た。顔が真青《まっさお》になって、唇に血の気《け》がなかった。
叔父は田舎から帰ってからも、家に閉じ籠《こも》って考えてばかりいたが、気が塞《つま》って来ると、時々想い出したように、誰かを引っ張り出して芝居や寄席へ行った。その日はちらちらと雪が降っていた。芝居のなかも暗く時雨《しぐら》んだようで、底冷えが強く、蒲団を被《か》けていても、膝頭《ひざがしら》が寒かった。叔父は背筋へ水をかけられるようで、永く見ていられなかった。
日の暮れ方に、俥で金助町の新しい家へ帰って来ると、褞袍《どてら》を引っかけて、火鉢の傍に縮まっていた。
「どうしたというんだろう。」と、母親は会社の紛擾《ごたごた》から引き続いて、心配事ばかり多い弟の体を気遣った。
「なあに感冒《かぜ》だ。ヘブリンの一服も飲めば癒《なお》るで。」叔父はそう言いながら、繁三を相手に酒を飲んで芝居の話などしていた。
お照がしばらくここの家に隠れていた。あっちの家を引き払うころから、お照のことで、叔父と丸山とは互いに気持を悪くしていたが、ここへ引っ越してからも、あまり往来《ゆきき》をしなかった。丸山が女を捜しに来ると、女は二階へあがって客の部屋に隠れていた。丸山は終《しま》いに女をかまいつけなくなった。
病院以来懇意になった糺の友達の医師《いしゃ》が、その晩もぶらりと遊びに来て、叔父と碁を打ちはじめた。叔父は一勝負やっと済ますと、碁盤を押しやって顔を顰《しか》めた。石持っている間も時々|顫《ふる》えていた。
「おかしいな。」と、医師《いしゃ》は繁三に糺の聴診器を取り寄せさして、叔父の体を見た。
医師は骨立った叔父の胸をそっちこっち当って見ているうちに、急に首を捻《ひね》って肺のところをとんとんと強く敲《たた》きはじめた。
「どうも少しおかしい。」医師は側を離れると、溜息を吐いて、急いで縁側へ手を洗いに行った。
「肺病にでもなっているのじゃないらか。」母親は傍から心配そうに言った。お照もお庄も、黙って叔父の顔を眺めていた。
「私の肺は、人に優《すぐ》れて丈夫だと言われたもんだが……。」
と、叔父は肩を入れながら呟《つぶや》いた。
医師も繁三も、じきに帰った。
「とにかく院長に一度|診《み》ておもらいなさい。うっちゃっておいちゃいけない。」医師《いしゃ》は繰り返しそう言って出て行った。
酔いのさめた叔父は、また酒でも飲まずにはいられなかった。
「そんなに酒を飲んでもいいらか。あの医師《いしゃ》がああ言うくらいだで、どこかよい医師に診てもらうまで、むやみなことをしない方がいい。」
「あの竹の子医師に何が解るもんで……。」
叔父はお照に酌《しゃく》をしいしい自分にも飲んだ。
湯島の伯母に引っ張り出されて、叔父はその翌日《あくるひ》駿河台の病院へ診てもらいに行った。
「結核も結核、ひどい結核だと言うでないかい。」と、伯母はお庄と母親が朝飯を食べているところへ飛び込んで来て顔を顰めた。
二人はびっくりして、箸を休めた。
「昨夜《ゆうべ
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