厭味を言った。
お庄も少し逆上《のぼ》せたようになっていた。そして自分は自分だけの理窟を言った。人中にいるのに、そう姿振《なりふ》りにかまわないわけにも行かないと思った。自分の身じんまくもする代りに、病人の看護も、長い間まだしもよくして来た方だとも思った。
お庄は理も非も判《わか》らないような老婦《としより》の愚痴に終《しま》いに笑い出した。
吊り台で、死骸が担ぎ出されるまでには、大分時間がかかった。そのころにはまだ温《あたた》か味《み》の通っている死人の腹部も、だんだん冷えて来た。家を出るとき、声をかけて来た手伝いの人たちもそれぞれ集まって来た。中には叔父も資本の幾分を卸して、車を五、六十台ばかり持って、挽子《ひきこ》に貸し車をしている安という物馴れた男もいて真先に働いた。
「小崎さん、患者さんの代りに、あなたの紀念の写真を一枚|撮《と》って下さいな。」中ごろから替って来た気のやさしい上方産《かみがたうま》れの看護婦が、病室を取り片着けているお庄の傍へ寄って来て言いかけた。お庄は夜も昼も聞かされた病人の唸り声が、まだ耳についているようであった。
お庄は気忙しいなかで、叔父に断わって看護婦と一緒に向うの写真屋へ行った。看護婦の望みで、母親にも勧めたが、母親の心はそれどころではなかった。
やがてお庄は積めるだけの物を、蹴込みに積んで、母親と一緒に一と足先に病院を引き揚げた。
格子戸や上り口の障子を外して、吊り台を家のなかまで持ち込んだのは、午後の三時過ぎであった。叔父はこれまでに丸山の主《あるじ》や糺に手伝ってもらって、死亡の報知《しらせ》を大方出してしまった。病院の帰りに、電話や電報を出した口も少しはあった。その中に、墨西哥《メキシコ》公使館の通弁をしているという仏の従弟《いとこ》に当る男などもいた。
「すみませんが、六尺を一本ずつ切って戴きたいもんで。」安公は座敷に蓙《ござ》を敷いて、仏に湯灌を使わそうとするとき、女連《おんなれん》の方へ声かけた。吊り台から移された死骸は屏風の蔭に白い蒲団の上に臥《ね》かされてあった。
晒木綿《さらしもめん》を買いに、幸さんが表へ飛び出して行った。
女連は、別の部屋の方で、経帷子《きょうかたびら》や頭陀袋《ずたぶくろ》のようなものを縫うのに急がしかった。母親はその傍でまた臨終の時のたよりなかったことを零《こぼ》しはじめた。
四十九
「田舎の人は真実《ほんとう》に物が解らない。」と、お庄はまだ叔母の母親に言われたことが、頭脳《あたま》にあった。
お庄は手伝いに来ている安公のところの、お留という十四、五の娘にいいつけて買わした、乾物や野菜ものをそこへ拡げながら、お通夜《つや》の人に出す食べ物の支度に取りかかろうとしていた。母親のお安も仕事の手を休めて、そこへ来て見ていた。お庄は蓮《はす》の白煮を拵《こしら》えるつもりで皮を剥《む》きはじめた。傍には笹《ささ》ばかり残った食べ荒しの鮨《すし》の皿や空《から》になった丼《どんぶり》のようなものが投《ほう》り出されてあった。
奥ではもう湯灌もすんで、仏の前にはいろいろの物が形のごとく飾られ、香の匂いが台所までも通って来た。座敷の話し声が鎮《しず》まったと思うと、時々|鈴《りん》の音などが聞えて来た。
「お婆さんたちは何にもしないで、病人の傍にめそめそ泣いてればいいと思って。それは病人だって、大切にしなけれアならないけれど、そのために看護婦がつけてあるんじゃないか。病院だって、叔母さんだけが患者じゃないんだわ、お婆さんは真実《ほんとう》に勝手が強いんだよ。」
「なにかと言ったって、お此さんは幸福《しあわせ》せえ。田舎じゃどうして、あんな手当ては出来るもんじゃない。」母親も言った。
「どういうものでしょうかね、明日《あした》の葬式《とむらい》に小崎さんはおいでなさるでしょうね。」
丸山の主《あるじ》が、何やら長い帳面と筆とを持って、白足袋を気にしながら、散らかった台所口へ来てしゃがんだ。
「そうでござんすね。」と、母親は椎茸《しいたけ》を丼で湯に浸《つ》けていながら、思案ぶかい目色《めいろ》をした。
「後《あと》を貰うものとすれば、やっぱりお寺まで行くべきものでしょうかね、弟もまだ四十にゃ二、三年|間《ま》のある体だもんですからね、これぎり貰わないっていうわけにも行きませんか知らんて。」
「それアそれどころじゃない。」
「それとも、田舎から姑《しゅうとめ》も来ているものですから、お葬式《とむらい》の時だけは遠慮すべきもんでしょうか。」
「あらかじめ再婚を発表するようでもあまり感服しないでね。」丸山はこういって、母親とお庄の顔を見比べた。
「それでお庄ちゃんは香炉持《こうろも》ち、正ちゃんがお位牌《いはい》、それアようござんすね。」
「まアそういった順ですかね。」
葬儀社が来たとか言って、丸山は奥へ呼び込まれて行った。
叔父はぼんやりしたような顔をして、時々そこいらへ姿を現わした。
「電報はもう届いていますらね。」と叔母の母親も、田舎の伜《せがれ》夫婦の出て来るか来ぬかを気にしては、訊いていた。
この晩、お庄は経を読んでいる法師《ぼうず》の傍へ来て坐る隙《ひま》もなかった。座敷の方が散らかって来ると、丸山の内儀《かみ》さんと一緒に、時々そこらを取り片着けて歩いた。そしてまた新しく酒や食べ物を持ち運んだ。
夜が更《ふ》けてから、母親は昼間しかけておいた、お庄の襦袢《じゅばん》などを、茶の間の隅の方で、また縫いにかかった。
「私はそれじゃ、御免|蒙《こうむ》って少し横にならしておもらい申しますわね。」
叔母の母親は、ひとしきり仏の前へ行って来ると、脹《は》れ爛《ただ》れたような目縁《まぶち》を赤くして、茶の室《ま》の方へ入って来た。そして母親と一緒に茶を飲んだり、煮物を摘《つま》んだりしていた。
「さあさあ明日もあるもんだて、一ト休みお休みなすって……。」と、母親も眠い目をしながら、四畳半の方から掻捲《かいま》きや蒲団を持ち出して来てやった。
静かになった座敷の方からは碁石の音などが響いて来た。
五十
「さあ皆さん打《ぶ》っ着けてしまいますよ。」葬儀屋の若いものと世話役の安公とが、大声に触れ立てると、衆《みんな》はぞろぞろと棺の側へ寄って行った。
細長い棺の中には、布《きれ》の茶袋が一杯詰められてあった。冠《かぶ》り物《もの》や、草鞋《わらじ》のような物がその端の方から見えた。生前にいろいろの着物を縫って着せるのが楽しみであった人形を入れてやろうかやるまいかということについて、女の連中がまた捫着《もんちゃく》していた。
「入れないそうです。」と、誰やらが大分経ってから声かけた。
衆《みんな》が笑い出した。
「残しておいても何だか気味がわるいようですから入れて下さい。」とお庄は言ったが、母親は惜しがった。
「私《わし》が娘《あれ》の片身に田舎へ連れて帰らしておもらい申しますわね。」と、姑も言い出した。安公がでこぼこの棺のなかを均《なら》しながら、ぐいぐい圧《お》しつけると、「おい来たよう。」と蓋《ふた》がやがてぴたりと卸《おろ》された。白襟《しろえり》に淡色の紋附を着た姑は、その側に立って泣いていた。母親も涙を拭きながら、口のなかにお題目を唱えていた。
田舎から来た人たちも、皆な着替えをすまして、そこらに彷徨《うろつ》いていた。
お庄は今朝から、今日の着物のことで気が浮わついていた。昨日の昼過ぎにやっと注文した紋附が、一時出棺の間にあいそうにもなかった。
「やっぱりお此さんのをお前のに直した方が早手廻しだったかな。」今朝の九時ごろまでかかって、やっと家で縫えるようなものを縫いあげた母親は、そんな物を積み重ねた、茶の室《ま》の隅の方で、お庄とひそひそ話し合っていた。田舎から出て来た叔母の弟嫁が良人と一緒に入って来た。そうして鞄からそこに出しておいた着物の包みをほどきながら、良人の羽織や袴《はかま》を取り別《わ》けて、着替えをさせに取りかかった。顔の綺麗なその良人は、ごりごりした帯や袴の紐に金鎖を絡《から》ませながら、ぬッとした顔をして出て行った。嫁はそれから隅の方で、背後向《うしろむ》きになって自分の支度に取りかかろうとした。
「どうも済んません、遅くなって……。」お冬という叔母やお庄の結いつけの髪結が、ごたくさのなかへ、おずおず入って来た。
「さあ、あなたからお結いなすって……後はお婆さんにお庄に私くらいなものですで……。」
「そうですか。じゃお先へ御免蒙って……東京でもやっぱり島田崩しに結いますかね。」と、嫁はそこへこてこて[#「こてこて」に傍点]取り出した着替えをそっくり片寄せておいて、明るい方へ出て来て坐った。姑も側へやって来て、嫁の着物の衿糸《えりいと》を締めなどした。お庄はそこへ鏡台や櫛《くし》道具を持ち運んで来た。
「東京じゃもう、大抵毛捲きなんですがね。どうしましょうか。」髪結は油でごちごちした田舎の人の髪を、気味わるそうにほどいて梳《す》きはじめた。
お庄も母親も、取り外したその髪の道具に側から目をつけていた。
葬式《とむらい》にたつ人や、人夫に食べさすものを拵えている台所の方を、母親はその隙にまた見に行った。
「皆さんも、今のうち何か食べておおきなすって……。」母親はそこらを片寄せて、餉台《ちゃぶだい》の上へ食べ物を持ち運んだ。
お庄は食べる気もしなかった。
「あの人たちは、あれでなかなか金目《かねめ》のものを挿していますよ。」
「何しろある身上《しんしょう》だでね。」
お庄は隙になった茶の室《ま》で、今やっと裏口から届けて来た、着物の包みをほどきながら、母親と額を鳩《あつ》めて話し合った。包みのなかには、正雄に着せる紋附や袴も入っていた。二人は気忙しそうに、仕着《しつ》け糸を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》りはじめた。母親はその中で、紋を一つ一つ透《すか》しては見ていた。
長く田舎に蟄居《ひっこ》んでいる父親に物を亡《な》くされた愚痴が、また言い出された。
五十一
「……後をお貰いなさればと言っても、私はまたちょくちょく寄せておもらい申しますわね。」と、姑《しゅうとめ》が皆に暇乞《いとまご》いして帰ってしまってからは、叔父の家も急に寂しくなった。弟夫婦は、葬式《とむらい》がすむと、じきに立って行った。
それまでに、姑は片見分けに自分の持って帰るようなものを、母親と一緒に、すっかり箪笥のなかから択《え》り分けた。中には叔母が田舎にいた時分から離さなかった頭髪《あたま》のものなどもあった。姑は自分がそれを拵えてやたころのことを言い出して、三十やそこいらで死んでしまった娘の不幸をまた零《こぼ》しはじめた。
そんな物を択り分けるに、二人は毎日毎日暇を潰《つぶ》した。出して見てはしまったり、やって見てはまた惜しくなったりした。
「欲しいと言うものは何でも持って行かした方がいい。姉さまやお庄には、どうせまた拵えるで……。」と、叔父は蔭で母親をたしなめた。
姑はお庄に案内してもらって、久しぶりで浅草や増上寺を見てあるいた。芝居や寄席へも入った。姑はそのたんびに、何かしら死んだ娘の持ちものを一つや二つは体に着けて出ることにしていたが、お庄も叔母の帯などを締めて、いつもめかしこんで出て行った。四畳半にはまだ白い位牌《いはい》が飾ってあった。姑は外から帰って来ると、その側へ寄って、線香を立てたり鈴を鳴らしたりした。
「新仏《あらぼとけ》さまにまた線香が絶えておりましたに。」と言って、姑は余所行《よそゆ》きのままで、茶の室《ま》へ来て坐った。
「へ、そうでござんしたかね。」と、母親は此間《こないだ》中の疲れが出て、肩や腰が痛いと言って、座敷の隅の方に蒲団を延べて按摩《あんま》に療治をさせながら、いい心持に寝入っていた。
叔父は明後日《あさって》の初七日《しょなぬか》のことで、宵から丸山へ相談に行っていた。
「ああ、お蔭さまで、私
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