来てもくれなかったとか、気塞《きづま》りな病院よりも他に面白いところがあるから来なかったのだとか、愚にもつかぬことを言い出して、叔母は終いに泣いた。
「どこも行くところなぞありゃしない。私《わし》ア丸山さんのとこで捕《つかま》って花を引いていたんだ。」と、叔父は小川町の通りで買って来たばかりのウイスキーの口を開けて、メートルグラスに注《つ》いで飲んでいた。
「それは何でござんすね。」と、叔母は淡《うす》い橙色《オレンジいろ》のその盞《コップ》を遠くから透《すか》して見た。
「自分ばかり飲まないで、私にも少し飲まして下さいよ。」叔母は水張った蒼白い手を延ばした。
「こんなもの飲めば死んじまう。」叔父は渋い顔をして、瓶に口をさすと、それを寝台の端の方へ隠した。そして、ごろりと背後向《うしろむ》きになって懈《だる》い目を瞑《つぶ》ろうとした。
「いやな人だね、後向きなぞになって……病気をするものはどのくらい割りがわるいか。」叔母はじろじろ叔父の寝姿を見ながら溜息を吐いた。昼眠れば夜は眠れないのが自分には苦しかった。
昼からお庄は、汚れた病人の寝衣《ねまき》や下の帯のようなものを一包み蹴込みに入れて家に帰って行った。
叔母はまた家のことをいろいろ頼んだ。
「田舎の阿母《おっか》さんも、疲れが癒《なお》ったらまた少しお出でなすって下さいってね。そしてあの帯が重いようなら、私の不断帯でもおしめなすってね、着物もじみなのがいくらもありますから……。」病人は自分の母のことばかり心配した。
お庄はその顔を眺めて立っていた。
「お庄ちゃんも、行ったり来たりするんだから、私の雪駄《せった》でも出してはいたらどうだね。」病人はくっつけたようにお愛想を言った。「私は癒ればまた買いますわね。」
お庄は隅の方で帯を締め直したり、顔を直したりして、それから出て行った。
田舎の母親が、もう片身分《かたみわ》けの見立てでもするように、座敷でいろいろなものを拡げて見ていた。大抵は叔母がこの三、四年に丹精して拵えたものばかりで、ついこの春に裾廻しを取り替えてから、まだ手を通したことのない、淡色の模様の三枚襲《さんまいがさね》などもあった。お庄は嫁に行くとき、この古い方の紋附を叔母から譲ってもらうことになっていたことを思い出した。
樟脳《しょうのう》の匂いの芬々《ぷんぷん》するなかで、母親を相手に、老婦《としより》はまたお饒舌《しゃべり》を始めていた。
やがて母親は済まぬ顔をして、茶の室《ま》の方へ出て来た。
「あの人は妙なことを言う人だえ。」母親は白い目をしてお庄に呟いた。
「何でも彼でも、自分の家で拵えてやったようなことばかり言うでね。それもいいけれど、あの紋附を、もうお此《この》さんには派手だで、帰るとき田舎へ持って行ってお花さんに着せるそうだよ。」
「いいわねそんなこと……私は叔父さんにまた拵えてもらうから。」お庄は日焼けのしたような顔を手巾《ハンケチ》で拭いた。
「どこから捜して来たか、あの碧《あお》い石の入った大きい指環《ゆびわ》まで出して来て、指環というものはまだ嵌《は》めたことがないで、少しお借り申したいなんてね。」と、母親は歯茎《はぐき》に泡を溜めながら言い立てた。
昨日《きのう》から家中引っ掻き廻している、老婦《としより》の仕打ちが、母親にはくやしくもあった。
「どれさ。」と、お庄は邪慳《じゃけん》そうに訊いた。
「ほれ、あの……いつか丸山さんとお対《つい》に、叔父さんが拵えたのがあるじゃないかえ。」母親は急《せ》き込んで、同じようなことを幾度も繰り返した。
四時ごろに、老婦《としより》は娘の意気な櫛《くし》などを挿し込んで、箪笥にきちんと錠を卸《おろ》して、また病院の方へ出かけて行った。
四十六
三週間も経った。そのころには、病人の体もただ薬の灌腸《かんちょう》や注射で保《も》たしてあるくらいであった。頭脳《あたま》がぼんやりして、言うことも辻褄《つじつま》が合わなかった。体が冷えて、爪に血の色が亡《う》せて来ると、医師《いしゃ》がやって来て注射を施した。患者はしばらくのまに渾身《みうち》が暖まって来た。
「ことによると、今夜もたないかも知れませんよ。御親類へお報《しら》せになった方がよろしいでしょう。」
老婦《としより》やお庄が、昏睡《こんすい》状態にある患者の傍で、医師からこう言い渡されるのも、もう二、三度になった。
息を吐《ふ》き返して来ると、患者は暗い穴の底から、縁《ふち》に立っている人を見あげるように、人々の顔を捜した。
「私だよ。」母親はその手を握って、娘の頬のところへ自分の顔を摺り寄せて行った。
患者は心から疲れたような、長い厭な唸り声を立てた。
「おお可哀そうだな。」と、母親は鼻を塞《つま》らせた。
病人の顔は少しずつはっきりして来た。
「そこの茶箪笥に、私の湯呑があったかね。」患者はにちゃにちゃする口をもがもがさせた。
看護婦が、渇《かわ》きを止めるような薬を、管《くだ》で少しずつ口へ注いでやった。
「病気が癒ったら、床あげに弁松《べんまつ》からおいしいものをたくさん取って、食べましょうね。」患者は思い出したように言い出して、衆《みんな》を笑わせた。
「ああ、それどころじゃない。どんなお金のかかることでもして上げるで、もう一度癒っておくれよ。」母親は泣くような声を出した。
集まって来た人たちは、また寝台を離れて、床《ゆか》のうえに坐った。
「この塩梅《あんばい》じゃ、また二、三日もちますかね。」
「お庄ちゃん、叔父さんは……。」患者はうとうとしたかと思うと、また訊きだした。
「叔母さん、いまじきですよ。」
お庄は叔父を見に行く風をして蒸《む》れるような病室を出て行った。そして廊下の突当りにある医員の控え室に入った。
控え室は十畳ばかり敷ける日本室《にほんま》であった。糺の知合いの医員を、お庄も湯島時代から知っていた。そして一緒に茶を呑んだり、菓子を摘んだりした。この部屋へよく遊びに来る、軽い脚気患者の、向うの写真屋のハイカラ娘とも、ちょくちょく口を利くようになった。お庄は叔父のいいつけで、この連中へ時々すしや蕎麦《そば》のようなものを贈った。叔母が別品だと言った助手が、西洋料理などを取り寄せて食べているのを見て、お庄は時々口に手※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》を当てて思い出し笑いをした。
「ああ、何て暑い晩でしょう。」お庄はその入口に膝を崩して、ベッタリ坐った。
「暑けアこの上の物干しへでもお上んなさい。」そこにワイシャツ一つになって臥《ね》そべっていた知合いの医員は、傍《はた》から揶揄《からか》うように言った。
糺の兄弟の噂が二人の間に始まった。糺に近ごろ女が出来たということも男がお庄に話して聞かした。
「そうですかね、私ちっとも知りません。」お庄は顔を赧《あか》らめて、子猫のような低い鼻頭を気にして時々指で触った。
お庄は暗い物干しで、しばらく涼んでいた。中形の浴衣《ゆかた》に、夜露がしっとりして、肩のあたりが冷たくなって来た。
暑い病室へ入って行くと、患者の呻吟声《うめきごえ》がまた耳についた。お庄は老婦《としより》に替って、患者の傍の椅子に腰かけた。
夜明け方から、叔母の様子があやしくなって来た。寝台に倚《よ》りかかって、疲れてうとうとしていたお庄が目をさますと、看護婦が出たり入ったりしていた。助手も注射器を持って入って来た。
お庄は外の白《しら》むのを待って、俥を築地へ走らせた。
四十七
家の戸がまだ締っていた。格子戸も板戸も開かなかった。お庄は俥屋を表に待たしておいて、裏口へ廻って、母親を呼んだ。母親は「おいおい。」と返辞をしながら出て来た。
「どうしたえ。お此さんの容体がまた悪いだか。」母親は台所の框《かまち》に腰掛けて訊いた。
お庄も懈《だる》い体を水口の柱に凭《もた》せかけながら、叔母の容態を話した。
「それじゃとうとう駄目だかな。」と、母親はがっかりしたように言って、天窓を引いたり、窓を開けたりした。
「それでもまあ保《も》った方さ。あのくらいにして駄目なのなら、よくよく寿命がないのだ……。」
叔父がまた家を開けていた。
「丸山さんへ行って、花でも引いているら。」と母親は昨夜《ゆうべ》も二時ごろまで待たされたことを話しながら、床をあげたり、板戸を開けたりした。
お庄は人気のない家のなかを、落ち着かぬ風であっちゆきこっち行きしていた。葬式《とむらい》や骨《こつ》あげに着て行く自分の着物のことなどが気にかかった。田舎から来る、叔母の身内の人たちの前も、あまり見すぼらしい身装《みなり》はしたくないと想《おも》った。
母親とお庄は、奥座敷の箪笥の前に立っていながら、そのことについていろいろと相談した。
「なあに間に合うて。今日の午前《ひるまえ》に目を落したって、葬式《とむらい》は明後日《あさって》だもんだで……それも紋を染めていたじゃ間に合いもすまいけれど、婚礼というじゃなし石無地《こくむじ》でも用は十分足りるでね。それでなけれアお此さんの絽《ろ》の方のを直すだけれどな。」
母親は落ち着きはらって、いろいろの見積りを立てていた。
とにかくお庄は、叔父を捜しに出かけることにした。入舟町の方から渡って行く中ノ橋あたりは、まだ朝濛靄《あさもや》が深く、人通りも少かった。その家では、女中と娘の子とが起きているぎりで、遊びに疲れた主人夫婦も叔父も、今ようやく寝たばかりのところであった。叔父のたおれている座敷には、帯や時計や紙入れや飲食いした死骸《から》などがだらしなく散らばっていた。
「まアいい、大丈夫今に行くで……。」正体なく眠っている叔父は、顎をがくがくさせながら、お庄の顔をじろりと見たきりで、長い体をぐらりと横へ引っくら返った。
お庄はそこへ俥をおいて、ついでに近所の髪結のところへちょっと声をかけてから家へ帰った。
死んだという電報が、八時ごろにお庄の髪を結っているところへ舞い込んだ。
「それじゃやっぱりそうだったんだ。」と、母子は幾度も電報を読み返した。
母親は気忙しそうに起ち上ったが、さしあたって何をするという考えも思い浮ばなかった。お庄は急いで合せ鏡をしながら、紙で頚《えり》などを拭いて、また叔父のところへ駈けつけた。
その家では、衆《みんな》がぞろぞろ起きて、脹《は》れぼッたいような顔をして茶の室《ま》へ集まった。
叔父は内儀《かみ》さんの汲《く》んでくれた茶を飲みながら、電報の時間附けなどを見ていたが、するうちにお庄と一緒に家を出た。主《あるじ》夫婦も、着換えをして後から続いた。
衆《みんな》が病院へ駈けつけた時分には、死骸はもう死亡室の方へ移されてあった。げっそり嵩《かさ》の減ったような叔母の死骸には、白い布《きれ》が被《か》けられて、薄い寝台の敷物のうえに、脚を押っ立てながら、安らかに臥《ね》かされてあった。母親は皆の顔を見ると、また泣き出した。そして側へ寄って死者の冷たい顔から、白い布《きれ》を取り除けた。衆《みんな》は寄ってその顔を覗き込んだ。
四十八
「真実《ほんとう》にあっけないもんでござんした。」と、母親は目を擦《こす》りながら言い立てた。
「すっと息を引き取って行くところを、お医者さまたちは、傍に多勢立って黙って見ておいでなさるだけのものでございましたよ。それでいよいよ目を落してしまったところを見届けると、また黙って、各々《めいめい》すいと出ておいでなすってね。それに平常《いつも》はあんなに多勢入り交り立ち替り附いていて下すったのに、あいにく今朝は真《ほん》の私一人きりでね。」と、母親は後の方に立っているお庄の結立ての頭髪《あたま》や、お化粧をして来た顔に目をつけた。
「何のために使いをして下すっただか、こっちじゃ今目を落すという騒ぎだのに、行けば行《い》たきりで、気長にお洒落《しゃれ》なぞなすっておいでなさるでね。」母親はお庄に繰り返し繰り返し
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