人の往来《ゆきき》も少く、両側の店も淋しかった。砂埃に吹き曝《さら》されている、薄暗い寄席の看板などが目についた。
 お庄はまだ思い断《き》って、独りで築地へ行く気がしなかった。それよりは、浅草の方へ帰って行った方が、まだしも気楽なように思えた。そして時々立ち停って思案していた。
 浅草へ帰ったのは、八時ごろであった。お庄は馬車を降りると、何とはなし仲居の方へ入って行ったが、しばらくそこらを彷徨《ぶらつ》いているうちに、四下《あたり》がだんだん更《ふ》けて来た。
 お庄はその晩大道で、身の上判断などしてもらって、それからとぼとぼと家の方へ帰って行った。身の上判断は思っているほど悪い方でもなかった。

     二十九

 築地へ行くと言って出かけたきり行かなかったことが後で知れてから、お庄は糺に電話できびしく小言を喰った。電話のかかって来た時、客が立て込んでいて、お庄は落ち着いて先の話を聴くことも出来なかったが、衆《みんな》が意《おも》いのほか心配していることと、叔父や湯島のお婆さんの怒っていることだけは受け取れた。お庄は何だか軽佻《かるはずみ》なことをしたように思って、一日そのことが気にかかった。
「それじゃ二、三日の中にきっと行くね。たびたびそんなことをすると、終《しま》いに誰もかまってくれなくなってしまうからね。」と、糺が念を押した語《ことば》も、お庄の頭脳《あたま》をいらいらさせた。お庄は客のいない部屋の壁のところに倚《よ》りかかって、腹立たしいような心持で、じっと考え込んでいた。築地へはこれきり行かないことにしようかとも思った。一生誰の目にもかからないようなところへ行ってしまいたようにも思った。暮に田舎へ流れて行ったお鳥のことなどが想い出された。
「もし工合がいいようだったら知らしてあげるから、ことによったらお前さんも来るといいわ。少しは前借《ぜんしゃく》も出来ようというんだからいいじゃないか。」
 立つ少し前に、奥山で逢った時、お鳥はこう言って、その土地のことを話して聞かせた。それは茨城《いばらき》の方で、以前関係のあった男が、そこで鰻屋《うなぎや》の板前をしていることも打ち明けた。
「お前さんなんざまだ幼《うぶ》だから、行けばきっと流行《はや》りますよ。」お鳥はこうも言った。
 お庄はおそろしいような心持で聴き流していたが、時々そうした暗い方へ向いて行くような気もしていた。
「お清さんお清さん。」と、廊下で自分を呼んでいる朋輩《ほうばい》の慵《だる》い声がした。(お庄はこの家ではお清と呼ばれている。)お庄は聞いて聞えない風をして黙っていた。するうちに手※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》で目を拭いて客の方へ出て行った。
 それから二、三日して、お庄は菓子折などを持って、築地の方を尋ねた。奥の方では叔母の爪弾《つまび》きの音などが聞えて、静かな茶の間のランプの蔭に、母親が誰かの不断着を縫っていた。お庄がそっとその側へ寄って行くと、母親は締りのない口元に笑《え》みを見せて、娘の姿にじろじろ目をつけた。
「お前がここへ来ると言って、それきり来ないもんだで、どうしたろうかと言って、叔父さんも豪《えら》い心配していなすったに。」と言って、今夜は同役のところへ碁を打ちに行っていることを話した。正雄も二、三日前田舎から出て来た叔母の弟をつれて銀座の方を見に行って、いなかった。
 お庄は、そこで二、三服ふかしてから奥の方へ叔母に挨拶に行った。寒がりの叔母は、炬燵《こたつ》のある四畳半に入り込んで、三味線を弄《いじ》りながら、低い声で端唄《はうた》を口吟《くちずさ》んでいたが、お庄の姿を見るとじきに罷《や》めた。
「おやお庄ちゃんかい、しばらくでしたね。」と言って振り顧《かえ》った。叔母はその晩気が面白そうに見えた。そして、堅苦しく閾《しきい》のところにお辞儀をしているお庄に気軽に話をしかけながら、茶の間へ出て来た。
 しばらくすると、叔母の弟が正雄と一緒に帰って来た。色の白い目鼻立ちの優しいその弟は、いきなりそこにべたりと坐って溜息を吐いた。
「ああ、魂《たま》げてしまった。実に剛気なもんですね。」
「この人は銀座を見て驚いているんだよ。」弟は笑い出した。
 部屋が急に陽気になった。お庄も晴れ晴れした顔をして、衆《みんな》の話に調子を合わした。

     三十

「叔父さんはことによると今夜も帰って来ないかしら。」叔母は柱時計を見あげながら気にしだした。時計はもう十二時近くであった。
「あの人の碁も、このごろは一向当てにならないでね。」
 茶箪笥から出した煎餅《せんべい》も、弟たちが食い尽し、茶も出《だ》し殻《がら》になってしまった。母親は傍《はた》の話を聞きながら時々針を持ったまま前へ突っ伏さるようになっては
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