、また重い目蓋《まぶた》を開いて、機械的に手を動かした。お庄はその様子を見て腹から笑い出した。
「阿母さんは何ていうんでしょうね。そんなに眠かったら御免|蒙《こうむ》って寝《やす》んだらいいでしょう。」
「お寝みなさい。どうせ今夜は帰らないでしょうから。」叔母はその方を見ないようにして言った。
「いいえ、眠ってやしません。」
おそろしい宵《よい》っ張《ぱ》りな母親は、居睡りをしながら、一時二時まで手から仕事を放さない癖があった。頭脳《あたま》が悪いので、夜も深い睡りに陥ちてしまうなんということがなかった。
「僕はどうしても兄貴の世話にゃ何ぞならないで、きっと独りで行《や》り通してみせる。」と、昨日《きのう》から方々東京を見てあるいて、頭脳《あたま》が興奮しているので、口から泡《あわ》を飛ばして自分のことばかり弁《しゃべ》っていた叔母の弟も、叔父の机のところから持って来た、古い実業雑誌を見ていながら、だんだん気が重くなって来た。この少年の家は、田舎の町で大きな雑貨店を出していた。お庄は時々その狂気《きちがい》じみた調子に釣り込まれながら、妙な男が来たものだと思って綺麗《きれい》なその顔を眺めていた。
「さあ、鶴二《つるじ》も正ちゃんもお寝みなさいよ。」と、広い座敷の方へ寝道具を取り出して、そこへ二人を寝かせてしまうと、叔母は心配そうな顔をして、火鉢の傍へ寄って来た。近所はもう寝静まって、外は人通りも絶えてしまった。霊岸島《れいがんじま》の方で、太い汽笛の声などが聞えた。
叔母はその晩、しみじみした調子で、家の生活向《くらしむ》きのことなどを、お庄|母子《おやこ》に話して聞かせた。今の会社でいくらか信用が出来るまで、二度も三度もまごついたことや、堅くやっておりさえすれば、どうにかこうにか取り着いて行けそうな会社の方も、少し尻が暖まると、もうほかのことに手を出して、事務がお留守になりそうだということなどを気にしていた。叔父はそのころから株に手を出したり、礦山《こうざん》の売買に口を利いて、方々飛び歩いたりした。そして儲《もう》けた金で茶屋小屋入りをした。
「良人《うち》もあすこは、今年がちょうど三年目だでね、どうか巧い工合に失敗《しくじ》らないでやってくれればいいと思ってね……三年目にはきっと失敗《しくじ》るのが、これまでのあの人の癖だもんですからね。」
母親は性のないような指頭《ゆびさき》に、やっぱり針を放さなかった。
「もう年が年だから、弟もちっとは考えていますらい。」と、弟|贔屓《びいき》の母親は眠そうな顔をあげた。
「それに私も、この年になるまで子がないもんですからね。」
「まだないという年でもござんすまいがね。弟だって、四十には三年も間のあることだもんだから……。」
お庄はやがてこの叔母の傍へ寝かされた。叔母は床についてからも、折々寝返りをうって、表を通る俥や人の足音に耳を引き立てているようであった。するうちお庄はふかふかした蒲団に暖められて快い眠りに沈んだ。
三十一
翌朝目がさめて見ると、叔父はまだ復《かえ》っていなかった。明け方近くに、ようやく寝入ったらしい叔母は、口と鼻の大きい、蒼白いその顔に、どこか苦悩の色を浮べて、優しい寝息をしながら、すやすやとねていた。頬骨《ほおぼね》が際立って高く見えた。お庄は何だか淋しい顔だと思って眺めていた。
お庄は仮りて着て寝た叔母の単衣物《ひとえもの》をきちんと畳んで蒲団の傍におくと、そッと襖《ふすま》を開けて、暗い座敷から茶の間の方へ出た。台所では、母親がもう働いていた。七輪に火も興《おこ》りかけていたし、鉄瓶にも湯を沸かす仕掛けがしてあった。お庄も襷がけになって、長火鉢の掃除をしたり茶箪笥に雑巾をかけたりした。
そこらが一ト片着き片着いてしまうと、衆《みんな》は火鉢の傍へ寄って、母親が汲《く》んで出す朝茶に咽喉《のど》を潤《うるお》した。鶴二も正雄も、もう朝飯の支度の出来た餉台《ちゃぶだい》の側に新聞を拡げて、叔母の起きて出るのを待っていた。
するうちに座敷の方へ日がさして、朝の気分がようやく惰《だら》けて来た。東京地図を畳んだり拡げたりして、今日見て歩くところを目算立《もくさんだ》てしていた鶴二は、気がいらいらしてきたように懐中時計を見ては、しきりに待ち遠しがっていた。母親も茶碗を手にしながら欠《あくび》をしだした。お庄は二人に飯を食べさしてから、正雄に小遣いを少し持たして鶴二と一緒に出してやった。正雄は暮から学校の方も休《よ》していた。
「頭脳《あたま》の悪いものは、強《し》いて学問などさして苦しますより、いっそ商売を覚えさすか職人にでもした方が早道だそうでね。」と母親は叔父の言ったことをお庄に話した。
「どっちにしても、叔父さんが今に資本《もと
前へ
次へ
全69ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング