足迹
徳田秋声

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お庄《しょう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三台|誂《あつら》えた

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]
−−

     一

 お庄《しょう》の一家が東京へ移住したとき、お庄はやっと十一か二であった。
 まさかの時の用意に、山畑は少しばかり残して、後は家屋敷も田もすっかり売り払った。煤《すす》けた塗り箪笥《だんす》や長火鉢《ながひばち》や膳椀《ぜんわん》のようなものまで金に替えて、それをそっくり父親が縫立ての胴巻きにしまい込んだ。
「どうせこんな田舎柄《いなかがら》は東京にゃ流行《はや》らないで、こんらも古着屋へ売っちまおう。東京でうまく取り着きさえすれア衆《みんな》にいいものを買って着せるで心配はない。」
 とかく愚痴っぽい母親が、奥の納戸《なんど》でゴツゴツした手織縞《ておりじま》の着物を引っ張ったり畳んだりしていると、前後《あとさき》の考えのない父親がこう言って主張した。これまでにもさんざん道楽をし尽して、どうかこうか五人の子供を育てあげるにさしつかえぬくらいの身代を飲み潰《つぶ》してしまった父親は、妻子を引き連れてどこか面白いところを見物に行くような心持でいた。
 それまでに夫婦は長いあいだ、身上《しんしょう》をしまうしまわぬで幾度となく捫着《もんちゃく》した。母親はそのたびにいろいろの場合のことを言い出して、一つ一つなくなった物を数えたてた。
「あんらも今あれアたとい東京へ行くにしたってはずかしい思いはしないに」と、ろくに手を通さない紋附や小紋のようなものを、縫い直しにやると言って、一ト背負い町へ持ち出して行かれたことなどを、くどくどと零《こぼ》した。自分で苦労して、養蚕で取った金を夕方裏の川へ出ているちょっとの間に、ちょろりと占《せし》めて出て行ったきり、色町へ入り浸《びた》って、七日も十日も帰らなかったことなども、今さらのように言い立てられた。すると父親は煙管《きせる》を筒にしまって腰へさすと、ぷいと炉端《ろばた》を立って向うの本家へ外《はず》してしまう。
 お庄は母親が、売るものと持って行くものとを、丹念に選《え》り分けて、しまったり出したりしている傍《そば》に座り込んで、これまでに見たこともない小片《こぎれ》や袋物、古い押し絵、珊瑚球《さんごじゅ》のような物を、不思議そうに選り出しては弄《いじ》っていた。中には顎下腺炎《がっかせんえん》とかで死んだ祖母《ばあ》さんの手の迹《あと》だという黴《かび》くさい巾着《きんちゃく》などもあった。お庄は自分の産れぬ前のことや、稚《ちいさ》いおりのことを考えて、暗い懐《なつ》かしいような心持がしていた。
 家がすっかり片着いて、起《た》つ二日ばかり前に一同本家へ引き揚げた時分には、思い断《き》りのわるい母親の心もいくらか紛らされていた。明るい方へ出て行くような気もしていた。
 父親は本家の若い主《あるじ》と朝から晩まで酒ばかり飲んでいた。村で目ぼしい家は、どこかで縁が繋《つな》がっていたので、それらの人々も、餞別《せんべつ》を持って来ては、入れ替り立ち替り酒に浸っていた。山国の五月はやっと桜が咲く時分で裏山の松や落葉松《からまつ》の間に、微白《ほのじろ》いその花が見え、桑畑はまだ灰色に、田は雪が消えたままに柔かく黝《くろず》んでいた。
 道中はかなりに手間どった。汽車のあるところまで出るには、五日もかかった。馬車の通っているところは馬車に乗り、人力車《くるま》のあるところは人力車に乗ったが、子供を負《おぶ》ったり、手を引っ張ったりして上るような嶮《けわ》しい峠もあった。父親は早目にその日の旅籠《はたご》へつくと、伊勢《いせ》参宮でもした時のように悠長《ゆうちょう》に構え込んで酒や下物《さかな》を取って、ほしいままに飲んだり食ったりした。
「田舎の地酒もここがおしまいだで、お前もまあ坐って一つやれや。」と、父親はきちんと坐って、しゃがれたような声で言って、妻に酒を注《つ》いだ。
 母親は泣き立てる乳呑《ちの》み児《ご》を抱えて、お庄の明朝《あした》の髪を結《ゆ》ったり、下の井戸端《いどばた》で襁褓《むつき》を洗ったりした。雨の降る日は部屋でそれを乾《ほ》さなければならなかった。
「鼻汁《はな》をたらしていると、東京へ行って笑われるで、綺麗《きれい》に行儀をよくしているだぞ。」と、父親はお庄の涕汁《はな》なぞを拭《か》んでやった。気の荒い父親も旅へ出てからの妻や子に対する心持は優しかった。
 ある町場に近い温泉場《ゆば》へつ
次へ
全69ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング