れて行った時、父親はそこで三日も四日も逗留《とうりゅう》して、終《しま》いに芸者をあげて騒ぎだした。

     二

 一行が広い上野のプラットホームを、押し流されるように出て行ったのは、ある蒸し暑い日の夕方であった。
 父親は鞄《かばん》に二本からげた傘《かさ》を通して、それを垂下《ぶらさ》げ、ぞろぞろ附いて来る子供を引っ張ってベンチのところへ連れて行くと、母親も泣き立てる背中の子を揺《ゆす》り揺り襁褓《しめし》の入った包みを持って、めまぐるしい群集のなかを目の色を変えて急いで行った。停車場《ステーション》では蒼白《あおじろ》い瓦斯燈《ガスとう》の下に、夏帽やネルを着た人の姿がちらほら見受けられた。
 そこで一休みしてから、「私《わし》はまア後で行くで、お前たちは人力車《くるま》で一足先《ひとあしさき》へ行っとれ。」と言って、よく東京を知っている父親は物馴《ものな》れたような調子で、構外へ出て人力車《くるま》を三台|誂《あつら》えた。行く先は母親の側《かわ》の縁続きであった。父親は妻や子供をぞろぞろ引っ張って、そこへ入って行くのを好まなかった。
「それじゃ私は先へ行っておりますで、明朝《あした》はどうでも来て下さるだろうね。」母親は行李《こうり》を一つ股《また》の下へ挿《はさ》んで、車夫が梶棒《かじぼう》を持ち上げたときに、咽喉《のど》の塞《ふさ》がりそうな声を出して言うと、父親は頷《うなず》いて傘に包みを一つ下げながら、帽子を傾《かし》げて停車場前の広場へ出て行った。
 お庄は尻《しり》から二番目の妹と、一つの車に乗せられた。汽車に乗る前に、父親に町で買ってもらった花簪《はなかんざし》などを大事そうに頭髪《あたま》にさしていた。
 車は湯島の辺をあっちこっちまごついた。坂の上へあがると、煙突や灯《ひ》の影の多い広い東京市中が、海のような濛靄《もや》の中に果てもなく拡がって見えたり、狭いごちゃごちゃした街が、幾個《いくつ》も幾個も続いたりした。そのうちに日がすっかり暮れた。
 門構えや板塀囲《いたべいがこ》いの家の多い町へ来たとき、がた人力車《くるま》の音が耳につくくらいそこらが暗くシンとしていた。そこは明神《みょうじん》の深い森の影を受けているようなところで、地面が低く空気がしッとりしていた。碧桐《あおぎり》の蔭に埃《ほこり》を冠《かぶ》った瓦斯の見えるある下宿屋の前へ来かかったとき、母親と車夫との話し声を聞きつけて、薄暗い窓の簾《すだれ》のうちから、「鴨川《かもがわ》の姉さまかね。」と言って、母親の実家《さと》の古い屋号を声をかけるものがあった。見るとそこに髯深《ひげぶか》い丸い顔が、近眼鏡を光らしてニコニコしている。
 その顔はじきに入口の格子戸《こうしど》の方へ現われた。
「おや、みんなやって来たやって来た。」と言う、ここの女主《おんなあるじ》の声も耳に入った。
 しばらくすると帳場の次の狭苦しい部屋で物の莫迦叮寧《ばかていねい》な母親と、ここの人たちとの間に長い挨拶《あいさつ》が始まった。
 気象の烈《はげ》しい女主は、くどいお辞儀を続けている母親を見下すようにして、「東京は田舎と異《ちが》って、何もしずに、ぶらぶら遊んでいるような者は一人もいないで、為《ため》さあのような精《ずく》のない人には、やって行かれるかどうだか私《わし》ア知らねえけれど、まず一ト通りや二タ通りのことでは駄目だぞえ。」と、ずけずけ言った。
「そうでござんすらいに……。」と、母親は淋《さび》しい笑顔《えがお》を作って、ずらりと傍に並んで坐った子供を見やった。
 子息《むすこ》の菊太郎《きくたろう》は、ニコニコしながら茶をいれて衆《みんな》に侑《すす》めた。
「大きくなったな。お庄さんは幾歳《いくつ》になるえね。」と、お庄の丸い顔を覗《のぞ》き込んだ。
 部屋には薄暗いランプが点《とも》されて、女主の後から三男の繁三《しげぞう》が黒い顔に目ばかりグリグリさせて、田舎から来た子供の方を眺《なが》めていた。
 やがて繁三につれられて、お庄は弟と一緒に近所の洗湯《せんとう》へやられた。

     三

 その晩お庄は迷子《まいご》になった。
「お庄ちゃんは女だから、そっちへお入り。」と、お庄はパッと明るい女湯の中へ送り込まれて、一人できょろきょろしていた。そこには見たこともない大きい姿見がつるつるしていた。お庄は日焼けのした丸い顔や、田舎田舎した紅入《べにい》り友染《ゆうぜん》の帯を胸高《むなだか》に締めた自分の姿を見て、ぼッとしていた。
 湯から上ってみると、男湯の方にはもう繁三も弟も見えなかった。お庄は一人で暗い外へ出ると、温かい湯の匂《にお》いのする溝際《どぶぎわ》について、ぐんぐん歩いて行ったが、どこへ行っても同じような家と町ばかりであっ
前へ 次へ
全69ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング