た。お庄はさっき車夫が上ったような暗い坂を上ったり下りたり、同じ下宿屋の前を二度も三度も往来《ゆきき》したりした。するうちに町がだんだん更《ふ》けて来て、今まで明るかった二階の板戸が、もう締まる家もあった。
 菊太郎と繁三とが捜しに来たころには、お庄はもう歩き疲れて、軒燈の薄暗い、とある店屋の縁台の蔭にしゃがんで、目に涙をにじませながらぼんやりしていた。
「お前まあ今までどこにいただえ。」女主は帳場の奥から、帰って来たお庄に声かけた。
「東京には人浚《ひとさら》いというこわいものがおるで、気をつけないといけないぞえ。」
 お庄はメソメソしながら、母親の側《そば》へ寄って行った。
 ごちゃごちゃした部屋の隅《すみ》で、子供同士|頭顱《あたま》を並べて寝てからも、女主と母親と菊太郎とは、長火鉢の傍でいつまでも話し込んでいた。
「為《ため》さあは、何をして六人の子供を育てて行くつもりだかしらねえけれど、取り着くまでには、まあよっぽど骨だぞえ。」と女主は東京へ出てからの自分の骨折りなどを語って聞かせた。
「私らも、田舎でこそ押しも押されもしねえ家だけれど、東京へ出ちゃ女一人使うにも遠慮をしないじゃならないで……。」
 田舎では問屋本陣《とんやほんじん》の家柄であった女主は、良人《おっと》が亡《な》くなってから、自分の経営していた製糸業に失敗して、それから東京へ出て来た。そして下宿業を営みながら、三人の男の子を医師に仕立てようとしていた。それまでに商売は幾度となく変った。
 翌日父親が来たとき、母親と子供は、狭い部屋にうようよしていた。
「とにかくどんなところでもいいで、家を一つ捜さないじゃ……話はそれからのことですって。」と父親は落ち着き払って莨《たばこ》を喫《ふか》していた。
 午後に菊太郎と父親とは、近所へ家を見に出た。家はじきに決まった。すぐ横町の路次のなかに、このごろ新しく建てられた、安普請《やすぶしん》の平屋がそれで、二人はまだ泥壁《どろかべ》に鋸屑《かんなくず》[#「鋸」はママ]の散っている狭い勝手口から上って行くと、台所や押入れの工合を見てあるいた。
「田舎の家から見れア手狭いもんだでね。」と菊太郎は砂でざらざらする青畳の上を、浮き足で歩きながら笑った。
「まあ仮だでどうでもいい。新しいで結構住まえる。東京じゃ、これで坪二十円もしますら。」
 晩方には、もうそこへ移るような手続きが出来てしまった。
 下宿からは、さしあたり必要な古火鉢や茶呑《ちゃの》み茶碗《ぢゃわん》、雑巾のような物が運ばれ、父親は通りからランプや油壺《あぶらつぼ》、七輪のような物を、一つ一つ買っては提《さ》げ込んで来た。母親は木の香の新しい台所へ出て、ゴシゴシ働いていた。
 その間お庄は、乳呑み児を背《せなか》に縛りつけられて、下宿と引っ越し先との間を、幾度となく通《かよ》っていた。

     四

 点燈《ひともし》ごろにそこらがようよう一片着き片着いた。
 広い田舎家の奥に閉じ籠《こも》って、あまり外へ出たことのない母親は、近所の女房連の集まっている井戸端へ出て行くのが、何より厭《いや》であった。子供たちも行き詰った家のなかを、そっちこっちうろつきながら、何にもない台所へ出て来ては水口のところにぴったりくっついて、暮れて行く路次を眺めていた。お庄は出たり入ったりして、そこらの門口にいる娘たちの頭髪《あたま》や身装《みなり》を遠くからじろじろ見ていた。
 父親は買立てのバケツを提げて、水を汲《く》みに行ったり、大きな躯《からだ》で七輪の前にしゃがんで、煮物の加減を見たりした。
「こんな流しは私《わし》ア初めて見た。東京には田舎のような上流《うわなが》しはありましねえかね。」
「ないこともないが田舎は何でも仕掛けが豪《えら》いで。まア東京に少し住んで見ろ。田舎へなぞ帰ってとてもいられるものではないぞ。」
「何だか知らねえが、私は家のような気がしましねえ。」母親は滌《すす》いでいた徳利《とくり》をそこに置いたまま、何もかも都合のよく出来ている、田舎のがっしりした古家をなつかしく思った。
 父親が、明るいランプの下でちびちび酒を始めた時分に、子供たちはそこにずらりと並んで、もくもく蕎麦《そば》を喰いはじめた。母親は額に汗をにじませながら、荒い鼻息の音をさせて、すかすかと乳を貧《むさぼ》っている碧児《みずご》の顔を見入っていた。
「今やっと晩御飯かえ。」と、下宿の主婦《あるじ》は裏口から声かけて上って来た。
「皆な今まで何していただえ。」
「お疲れなさんし。」母親は重い調子でお辞儀をして、「何だか馴れねえもんだでね。」と、いいわけらしく言った。
「それでもお蔭で、どうかこうか寝るところだけは出来ましたえ。まア一つ。」と父親は猪口《ちょく》をあけて差した。

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