って行った。しまっておいた簾《すだれ》が、また井戸端で洗われるような時節で、裾《すそ》をまくっておいても、お尻の寒いようなことはなかった。お庄は薄暗くなった溝際《みぞぎわ》にしゃがんで、海酸漿《うみほおずき》を鳴らしていた。
 そこへ田舎から上野へ着いたばかりの父親が、日和下駄をはいて、蝙蝠傘《こうもりがさ》に包みを持ってやって来た。
「庄そこにいたか。」
 父親はしゃがれたような声をかけて行った。お庄は猫背の大きい父親の後姿を、ぼんやり見送っていた。
 お庄が弟をつれて家へ入って行くと、父親はぽつねんと火鉢のところに坐って、莨を喫《ふか》していた。母親も傍に黙っていた。お庄は父親と顔を合わすのを避けるようにして、台所の方へ出て行った。
「女房子を人の家へ打《ぶ》っつけておいて、田舎で今まで何をしていなさっただえ。」と、主婦《あるじ》は傍へ寄って行くと、ニヤニヤ笑いながら言った。
 父親はどこかきょときょとしたような調子で、低い声でいいわけをしていた。
「それならそれで、手紙の一本もよこせアいいに……。」と、主婦は父親に厭味を言うと、「ちっとあっちへ行って、台所の方でも見たらどうだえ。」と母親を逐《お》い立てた。
 母親は始終不興気な顔をして、父親が台所へ出て声をかけても、ろくろく返事もしなかった。
「酒を一本つけてくれ。私《わし》が買うから。」と、しばらく東京の酒に渇《かつ》えていた父親は、暗いところで財布のなかから金を出して、戸棚の端の方においた。
「そんな金があるなら、子供に簪《かんざし》の一本も買ってやればいい。」母親は見向きもしないで、二階から下って来た膳の上のものの始末をしていた。
「それアまたそれさ。来る早々からぶすぶすいわないもんだ。」
 お庄が弟を負《おぶ》って、裏口から酒を買って来たころには、二人の言合いも大分|募《つの》っていた。お庄は水口の框《かまち》に後向きに腰かけたまま、眠りかけた弟を膝の上へ載せて、目から涙をにじませていた。
 父親が自分でつけた酒をちびちびやりながら、荒い声が少し静まりかけると、主婦《あるじ》がまた母親を煽動《けしか》けるようにして、傍から口を添えた。
 やがて父親は酒の雫《しずく》を切ると、財布のなかから金を取り出して、そこへ置いた。
「私はこれから、浜の方へ少し用事があるで……持って来た金は皆《みんな》ここへ置きますで……。」
 主婦は鼻で笑った。
「行けアまたいつ来るか解らないで、子供を持って行ってもらったらよからずに。」
「子供をどうか連れて行っておもらい申したいもんで……。」と、母親も強《きつ》いような調子で言った。
 父親の出て行くあとから、お庄は弟を負《おぶ》せられて、ひたひたと尾《つ》いて行った。

     十八

 父親は時々|途《みち》に立ち停っては後を振り顧《かえ》った。聖堂前の古い医学校の黒門の脇にある長屋の出窓、坂の上に出張った床屋の店頭《みせさき》、そんなところをのろのろ歩いている父親の姿が、狭い通りを忙《せわ》しく往来《ゆきき》している人や車の隙《すき》から見られた。浜へ行くといって潔《いさぎよ》く飛び出した父親の頭脳《あたま》には何の成算もなかった。
 父親が立ち停ると、お庄もまた立ち停るようにしては尾いて行った。するうちに、父親の影が見えなくなった。道の真中へ出てみても、端の方へ寄ってみても見えなかった。
「お前気が弱くて駄目だで、どうでもお父さんに押っ着けて来るだぞえ。」
 お庄は、主婦《あるじ》が帽子や袖無しも持って来て、いいつけたことを憶い出しながら、坂を降りて、暗い方へ曲って行った。おろおろしていた母親の顔も目に浮んだ。
 お庄は広々した静かな眼鏡橋《めがねばし》の袂へ出て来た。水の黝んだ川岸や向うの広い通りには淡い濛靄《もや》がかかって、蒼白い街燈の蔭に、車夫《くるまや》の暗い看板が幾個《いくつ》も並んでいた。お庄は橋を渡って、広場を見渡したが、父親の影はどこにも見えなかった。お庄は柳の蔭に馬車の動いている方へ出て行くと、しばらくそこに立って見ていた。駐《とま》った馬車からは、のろくさしたような人が降りたり乗ったりして、幾台となく来ては大通りの方へ出て行った。
 暗い明神坂を登る時分には、背《せなか》で眠った弟の重みで、手が痺《しび》れるようであった。
「それじゃまたどこかそこいらを彷徨《ぶらつ》いているら。」と、主婦は独りで呟《つぶや》いていたが、お庄は母親に弟を卸《おろ》してもらうと、帯を結《ゆわ》え直して、顔の汗を拭き拭き、台所の方へ行って餉台《ちゃぶだい》の前に坐った。
 お庄がある朝、新しいネルの単衣《ひとえ》に、紅入りメリンスの帯を締め、買立ての下駄に白の木綿足袋《もめんたび》をはいて、細く折った手拭や鼻紙などを懐に挿み、
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