兜町《かぶとちょう》へ出ている父親の友達の内儀《かみ》さんに連れられて、日本橋の方へやられたころには、この稚《ちいさ》い弟も父親に連れられて、田舎へ旅立って行った。父親はそれまでに、横浜と東京の間を幾度となく往《い》ったり来たりした。弟の家の方を視《うかが》ったり、浅草の女の方に引っかかっていたりした。終いにまた子供を突き着けられた。
 お庄はまた弟をつれて、上野まで送らせられた。弟は衆《みんな》の前にお辞儀をして、紐《ひも》のついた草履《ぞうり》をはきながら、ちょこちょこと下宿の石段を降りて行った。
 お庄は構内の隅の方の腰掛けの上に子供をおろして、持って来たビスケットなどを出して食べさせた。子供はそれを攫《つか》んだまま、賑やかな四下《あたり》をきょろきょろ眺めていた。
 父親の顔は、長いあいだの放浪で、目も落ち窪《くぼ》み骨も立っていた。昨日浅草の方から、母親に捜し出されて来たばかりで、懐のなかも淋しかった。母親は、主婦《あるじ》に噬《か》みつくように言われて、切なげに子供を負って馬車から降りると、二度も三度も店頭《みせさき》を往来して、そのあげくにやっと入って行った。
 父親はその時二階に寝ていた。女の若い情人《おとこ》は、そのころ勧工場のなかへ店を出していた。
 父親は山の入った博多《はかた》の帯から、煙草入れを抜き出して、マッチを摺《す》って傍で莨を喫った。お庄は髯《ひげ》の生えたその顎の骨の動くさまや、痩《や》せた手容《てつき》などを横目に眺めていた。
 汽車の窓から、弟は姉の方へ手を拡げては泣面《べそ》をかいた。
 お庄は父親に、巾着《きんちゃく》のなかから、少しばかりの銀貨まで浚《さら》われて、とぼとぼとステーションを出た。

     十九

 お庄は日本橋の方で、ほとんどその一ト夏を過した。
 その家は奥深い塗屋造《ぬりやづく》りで、広い座敷の方は始終薄暗いような間取りであったが、天井に厚硝子の嵌《はま》った明り取りのある茶の間や、台所、湯殿の方は雨の降る日も明るかった。お庄はその茶の間の隅に据《す》わった、釜《かま》の傍に番している時が多かった。
 朝起きると、お庄は赤い襷《たすき》をかけ、節のところの落ち窪むほどに肉づいた白い手を二の腕まで見せて塗り壁を拭いたり、床の間の見事な卓や、袋棚《ふくろだな》の蒔絵《まきえ》の硯箱《すずりばこ》などに絹拭巾《きぬぶきん》をかけたりした。主《あるじ》の寝る水浅黄色の縮緬《ちりめん》の夜着や、郡内縞《くんないじま》の蒲団《ふとん》を畳みなどした。
 主人は六十近い老人で、禿《は》げた頭顱《あたま》の皮膚に汚い斑点《まだら》が出来ており、裸になると、曲った背骨や、尖《とが》った腰骨のあたりの肉も薄いようであったが、ここに寝泊りする夜はまれであった。
「ただ今お帰りですよ。」
 お庄は時々、こんな電話を向島《むこうじま》の方の妾宅《しょうたく》から受け取って、それを奥へ取り次ぐことがあった。
 内儀《かみ》さんは背の低い、品のない、五十四、五の女で、良人《おっと》に羽織を着せる時、丈《たけ》一杯|爪立《つまだ》てする様子を、お庄は後で思い出し笑いをしては、年増《としま》の仲働きに睨《にら》まれた。
 客の多い家で、老主人が家にいると、お庄は朝から茶を出したり、菓子を運ぶのに忙しかった。店の方を切り廻している三十前後の若主人や、その内儀《かみ》さんも、折々来ては老人の機嫌を取っていた。縁づいている娘も二人ばかりあった。
 年取った内儀さんは、よく独りで、市中や東京|居周《いまわ》りの仏寺を猟《あさ》ってあるいた。嫁や娘たちが、海辺や湯治場で、暑い夏を過すあいだ、内儀さんは質素な扮装《みなり》をして、川崎の大師や、羽田の稲荷《いなり》へ出かけて行った。この春に京都から越前《えちぜん》まで廻って秋はまた信濃《しなの》の方へ出向くなどの計画もあった。そのたんびに寺へ寄附する金の額《たか》も少くなかった。お庄は時々、そんな内幕のことを、年増の女中から聴かされた。
 内儀さんは、家にいても夫婦一つの部屋で細々《こまごま》話をするようなことは、めったになかった。悧発《りはつ》そうなその優しい目には、始終涙がにじんでいるようで、狭い額際《ひたいぎわ》も曇っていた。階上の物置や、暗い倉のなかに閉じ籠《こも》って、数ある寝道具や衣類、こまこました調度の類を、あっちへかえしこっちへ返し、整理をしたり置き場を換えて見たりしていた。着物のなかには、もう着られなくなった、色気や模様の派手なものがたくさんあった。
「私が死ねば、これをお前さんたちみんなに片身分《かたみわ》けにあげるんですよ。」
 内儀さんはその中に坐りながら言った。
 老人は、頭脳《あたま》が赫《かっ》となって来ると、この内儀さん
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