》を気にしている母親を小突いた。お庄は火鉢の傍で、宵《よい》の口から主婦の肩をたたいていた。お庄は時々疲れた手を休めて、台所の方で悪戯《わるさ》をしながら、こっちへ手招ぎしている繁三の方を見ていた。
繁三は河童《かっぱ》のような目をぎろぎろさせながら、戸棚へ掻《か》い上って、砂糖壺のなかへ手を突っ込んでいた。
「あらア、おばさん繁ちゃんが……。」お庄は蓮葉《はすは》な大声を出した。
繁三はどたんと戸棚から飛び下りると、目を剥《む》き出して睨《にら》めた。
十六
田舎から上って来た身内の人の口から父親の消息がこの家へも伝わって来た。
その人は母方の身続きで、下宿の主婦《あるじ》とは従兄弟《いとこ》同志であった。村では村長をしていて、赤十字の大会などがあると花見がてらにきっと上って来た。田舎で春から開業している菊太郎の評判などを、小父《おじ》が長い胡麻塩《ごましお》の顎鬚《あごひげ》を仕扱《しご》きながら従姉《いとこ》に話して聞かせた。
「為さあも、油屋の帳場に脂下《やにさが》っているそうだで、まア当分東京へも出て来まい。」小父は笑いながら話した。
お庄は母親の蔭の方に坐っていて、柱も天井も黝《くろず》んだ、その油屋という暗い大きな宿屋の荒れたさまを目に浮べた。そこは繭買《まゆか》いなどの来て泊るところで、養蚕期になるとその家でも蚕を飼っていた。主《あるじ》は寡婦《やもめ》で、父親は田舎にいる時分からちょいちょいそこへ入り込んでいた。お庄の家とはいくらか血も続いていた。
母親は齲歯《むしば》の痛痒《いたがゆ》く腐ったような肉を吸いながら、人事《ひとごと》のように聞いていた。
「それ、そんなこンだろうと思ったい。」と、主婦《あるじ》は吐き出すような調子で言った。
「あすこも近年は料理屋みたいな風になってしまって、ベンベコ三味線も鳴れア、白粉を塗った女もあるせえ。」
「いっそもう、そこへ居坐って出て来なけアいい。」母親も鼻で笑った。
「出て来なけアどうするえ。稚《ちいさ》いものがいちゃ働くことも出来まいが……。」
小父は主婦とお庄とをつれて、晩方から寄席《よせ》へ行って、帰りに近所の天麩羅屋《てんぷらや》で酒を飲んだ。
「小崎の姉さまも一ト晩どうだね。」と、田舎の小父は大きな帽子のついた、帯のある鳶《とんび》を着ながら、書類の入った折り鞄を箪笥の上にしまい込んで、出がけに母親に勧めた。
「私はヘイ。」と、母親は二十日《はつか》たらずも結ばない髪を気にしながら言った。
「お安さあは寄席どころではないぞえ。」と、主婦は古い小紋の羽織などを着込んで、莨入れを帯の間へ押し込みながら、出て行った。
母親は東京へ来てから、まだろくろく寄席一つ覗《のぞ》いたことがなかった。田舎にいた時の方が、まだしも面白い目を見る機会があった。大勢の出て行ったあと、火鉢の傍で、母親は主婦《あるじ》が手きびしくやり込めるように言った一ト言を、いつまでも考えていた。気楽に寄席へでも行ける体にいつなれるかと思った。
「私は東京へ来て、商業《これ》に取り着くまでには、田町で大道に立って、庖丁《ほうちょう》を売ったこともあるぞえ。」と、主婦の苦労ばなしが、また想い出された。
自分には足手纏《あしでまと》いの子供のあることや、長いあいだ亭主に虐《しいた》げられて来たことが、つくづく考えられた。
「あの人も、えらい出ずきだね。」
やがて女中と二人で、主婦の蔭口が始まった。
皆の跫音《あしおと》が聞えた時、火鉢に倚《よ》りかかって、時々こくりこくりと居睡《いねむ》りをしていた母親は、あわてて目を擦《こす》って仕事を取りあげた。
主婦は眠そうな母親の顔に、すぐに目をつけた。
「この油の高いに、今までかんかん火をつけて、そこに何をしていただえ。」
主婦は褄楊枝《つまようじ》を啣《くわ》えながら大声にたしなめた。
「私が石油くらいは買うで……。」と、母親は言い返した。
主婦の声はだんだん荒くなった。母親も寝所へ入るまで理窟《りくつ》を言った。
暗いところで小父の脱棄《ぬぎす》てを畳んでいながら、二人の言合いをおそろしくも浅ましくも思ったお庄は、終《しま》いに突っ伏して笑い出した。
十七
お庄はごちゃごちゃした日暮れの巷《まち》で、末の弟を見ていた。弟はもう大分口が利けるようになっていた。うっちゃらかされつけているので、家のなかでも、朝から晩までころころ独《ひと》りで遊んでいた。
「どうせもうそんなにたくさんはいらないで、この子を早く手放しておしまいやれと言うに――。」と、主婦《あるじ》は気を苛立《いらだ》たせたが、母親は思い断《き》って余所《よそ》へくれる気にもなれなかった。
弟は大勢の子供の群れている方へ、ちょこちょこと走
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