よければ主人に気に入って、西洋《むこう》へでも連れて行かないものとも限らない。そして真面目に働きさえすれア、お金もうんと出来るし、見られないところを方々見てあるいて、おまけに学問まで仕込んでくれるんだからありがたいじゃないかね。」
 叔母はそんな人の例を一つ二つ挙《あ》げた。帰朝してから横浜で女学校の教師に出世した女や、溜《た》めて来た金を持って田舎へ引っ込んで、いい養子を貰った女などがそれであった。母親はそういう気にもなれなかった。叔母が亭主と一緒に洋食を食ったり、洋酒を飲んだりするのすら、見ていて不思議のようであった。
「まア、もう少し大きくでもなりますれアまた……。」と、重い口を利《き》いた。
「義兄《にい》さんも思いきって、正ちゃんをくれるといいんだがね。」叔母は色白の、体つきのすンなりした正雄に目を注いだ。
 母親はこの子は手放したくなかった。
「何なら定吉の方を貰っておもらい申したいっていうこンだで……。」と、母親は、赧《あか》らんだような顔をしながら、莨《たばこ》を吸い着けて義妹《いもうと》に渡した。
 お庄は傍に坐って、二人の談《はなし》に注意ぶかい耳を傾けていた。

     十五

 お庄は母親と、また湯島の下宿に寄食《かか》っていた。正雄は、横浜から来るとじきに築地の方にいる母方の叔父の家に引き取られるし、妹は田舎で開業した菊太郎の方へ連れられて行った。次の弟は横浜の薬種屋の方に残して来た。
「男の子一人だけは、どうにかものにしなくちゃア。」と、叔父は、姉婿が壊《くず》れた家を支えかねて、金を拵えにと言って、田舎へ逃げ出してから、下宿の方へ来てその姉に話した。
 その叔父は夙《はや》くから村を出て、田舎の町や東京で、長いあいだ書生生活を続けて来た。勤めていた石川島の方の会社で、いくらか信用ができて株などに手を出していたが、頚《くび》に白羽二重《しろはぶたえ》を捲きつけて、折り鞄を提げ、爪皮《つまかわ》のかかった日和下駄《ひよりげた》をはいて、たまには下宿へもやって来るのを、お庄もちょいちょい見かけた。肩つきのほっそりしたこの叔父と、頚《くび》の短い母親とが、お庄には同胞《きょうだい》のようにも思えなかった。
「小崎の迹取《あとと》りはお前だに、皆を引き取ればよい。この節は大分株で儲《もう》けるというじゃないか。」下宿の主婦《あるじ》は叔父を揶揄《からか》うように言ったが、叔父は取り澄ました風をして莨を喫《ふか》しながら、ただ笑っていた。
 それから二、三日|経《た》ってから、ある晩方母親は正雄をつれて行ったが、一人で外へ出たことのないお庄も一緒に家を出た。
 そのころ引っ越した築地の家の様子は、お庄の目にも綺麗であった。三味線や月琴《げっきん》が茶の間の火鉢のところの壁にかかっている、そこから見える座敷の方には、暮に取りかえたばかりの畳が青々していた。その飾りつけも町屋風《まちやふう》で、新しい箪笥の上に、箱に入った人形や羽子板や鏡台が飾ってあり、その前に裁物板《たちものいた》や、敷紙などが置いてあった。
 田舎の町で、叔父が教師をしていた若い時分に、そこの商家から迎えたという妻は、堅気な風をして大柄の無愛想な女であった。
「私のところも、入る割りには交際は多いもんでね、せっかく正ちゃんをお引き受け申しても、お世話が出来ることやら出来ぬことやら、……。」と、叔母は茶箪笥のなかから、皮の干からびたような最中《もなか》に、気取った箸をつけて出してくれた。
「それに女のお児《こ》だと、また始末がようござんすがね、お庄ちゃんも浅草の方へお出でなさるんだとかでね……。」
「どうでござんすか。あすこも出て来たきり、庄《これ》が厭がるもんだで、一向|音沙汰《おとさた》なしで……。」と、母親は四つになった末の弟とお庄との間に坐って、口不調法に挨拶していた。
 母親は病身な正雄の小さい時分のことや、食事の細いこと、気の弱いことなどを、弟嫁に話しかけていたが、子供を持ったことのない叔母には、その気持の受け取れようがなかった。お庄は骨張ったようなその大きな顔を、時々じろじろと眺めていた。
 母親は四つになる末の子を負《おぶ》いかけては、取りつきかかる正雄の顔を見ていた。
 やがてお庄は足の遅い母親を急《せ》き立てるようにして、道を歩いていた。
 母親は下宿にいても、何も手に着かないことが多かった。父親が妻子をここへあずけて田舎へ立ってから、もう一ト月の余にもなった。
「それでも為さあは田舎で何をしているだか、また方々酒でも飲んであるいて、こっちのことは忘れているずら。書けねえ手じゃなし、お安さあもぼんやりしていないで、手紙を一本本家の方へ出して見たらどうだえ。」
 主婦《あるじ》はランプの蔭で、ほどきものをしながら齲歯《むしば
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