スウ聞えていた。
お庄は裾《すそ》を卸《おろ》して、寝床の下の方から二階へ上って行くと、押入れのなかから何やら巾着《きんちゃく》のような物を取り出して、赤い帯の間へ挟んだが、また偸《ぬす》むようにして下へ降りて行ったころに、亭主がようやく起き出して、袖《そで》や裾の皺《しわ》くちゃになった単衣《ひとえ》の寝衣《ねまき》のまま、欠《あくび》をしながら台所から外を見ながらしゃがんでいた。
お庄は体が縮むような気がして、そのままバケツを提げて水道口へ出て行った。泡《あわ》を立てて充《み》ち満ちて来る水を番しながら考え込んでいたお庄は、やがて的《あて》もなしにそこを逃げ出した。
十一
お庄はごちゃごちゃした裏通りの小路《こみち》を、そっちへゆきこっちへ脱けしているうちに、観音堂前の広場へ出て来た。紙片《かみきれ》、莨の吸殻などの落ち散った汚い地面はまだしっとりして、木立ちや建物に淡い濛靄《もや》がかかり、鳩《はと》の啼《な》き声が湿気のある空気にポッポッと聞えた。忙しそうに境内を突っ切って行く人影も、大分見えていた。お庄はここまで来ると、急に心が鈍ったようになって、渋くる足をのろのろと運んでいたが、するうちに、堂の方を拝むようにして、やがて仁王門《におうもん》を潜《くぐ》った。
仲店《なかみせ》はまだ縁台を上げたままの家も多かった。お庄は暗いような心持で、石畳のうえを歩いて行ったが、通りの方へ出ると間もなく、柳の蔭の路側《みちわき》で腕車《くるま》を決めて乗った。
「湯島までやって頂戴な。」と、お庄は四辺《あたり》を見ないようにして低い声で言うと、ぼくりと後の方へ体を落して腰かけた。
上野の広小路まで来たころに、空の雲が少しずつ剥《は》がれて、秋の淡日《うすび》が差して来た。ぼっと霞《かす》んだようなお庄の目には、そこらのさまがなつかしく映った。
お庄は下宿の少し手前で腕車を降りて、それから急いで勝手口の方へ寄って行った。
屋内《やうち》はまだ静かであった。お庄は簾《すだれ》のかかった暗い水口の外にたたずんで、しばらく考えていた。
「どうしてこんなに早く来ただい。」
主婦《あるじ》は上って行くお庄の顔を見ると、言い出した。蒼白《あおざ》めたような頬に、薄い鬢《びん》の髪がひっついたようになって、主婦《あるじ》は今起きたばかりの慵《だる》い体をして、莨を喫《す》っていた。
お庄はただ笑っていた。
「小言でも言われただかい。」
「いいえ。」
「何か失敗《しくじり》でもしたろ。」主婦《あるじ》はニヤニヤした。
「いいえ。」
「それじゃあすこが厭で逃げて来ただかい。逃げて来たって、お前の家はもう東京にゃないぞえ。」
お庄は袂で括《くく》れたような丸い顎《あご》のところを拭いていた。
「それにあすこはお父さんが、ちゃんと話をつけて預けて来たものだで、出るなら出るで、またその話をせにゃならん。お前は黙って出て来ただかい。」
「…………。」
「そんなことしちゃよくないわの。向うも心配しているだろうに。」と、主婦《あるじ》は煙管《きせる》を下におくと、台所の方へ立って行った。そして、楊枝を使いながら、「家へ帰ったっていいこともないに、どうして浅草で辛抱しないだえ。銀行へ預けた金もちっとはあるというではないかい。」
お庄はしばらく見なかったこの部屋の様子を、じろじろ見廻していた。
奥から二男の糺《ただす》も、繁三も起き出して来た。今茲《ことし》十九になる糺はむずかしい顔をして、白地の寝衣《ねまき》の腕を捲《まく》りあげながら、二十二、三の青年のように大人《おとな》ぶった様子で、火鉢の傍に坐ると、ぽかぽか莨を喫い出した。
「糺や、お庄が浅草の家を逃げて来たとえ。」と主婦《あるじ》は大声で言った。
糺は目元に笑って、黙っていた。
「また詫《わ》びを入れて帰って行くにしろ、このまま出てしまうにしろ、断わりなしに出て来るというのはよくないで、お前は葉書を一枚書いて出しておかっし。」
糺はうるさそうに口を歪《ゆが》めていた。
朝飯のとき、お庄も衆《みんな》と一緒に餉台《ちゃぶだい》の周《まわ》りに寄って行った。
「浅草へ行ってから、お庄もすっかり様子がよくなった。」糺は飯を盛るお庄の横顔を眺めながら笑った。
十二
ここの下宿は私立学校の医学生と法学生とで持ちきっていた。長いあいだ居着いているような人たちばかりで、菊太郎や糺とも親しかった。中には免状を取りはぐして、頭脳《あたま》も生活も荒《すさ》んでしまった三十近い男などが、天井の低い狭い部屋にごろごろして、毎日花を引いたり、碁を打ったりして暮した。夜はぞろぞろ寄席へ押しかけたり、近所の牛肉屋や蕎麦屋《そばや》で、火を落すまで酒を飲んだりした。北廓《なか
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