》の事情に詳しい人や、寄席仕込みの芸人などもあった。
「××さんもいつ免状をお取りなさるだか。お国のお父さんも、すっかり田地を売っておしまいなすったというに、そうして毎日毎日茶屋酒ばかり飲んでいちゃ済まないじゃないかえ。」
 主婦《あるじ》は楊枝を啣《くわ》えて帳場の方へ上り込んで来る書生の懦弱《だじゃく》な様子を見ると、苦い顔をして言った。
「私らンとこの菊太郎も実地はもうたくさんだで、今茲《ことし》は病院の方を罷《よ》さして、この秋から田舎に開業することになっておりますでね、私もこれで一ト安心ですよ。病院ももう建て前が出来た様子で、昔のことを思《おも》や地面も三分の一ほかないけれど、旧《もと》の家の跡へ親戚《しんせき》で建ってくれたと言うもんだでね。」
 主婦《あるじ》は同じようなことを、一人に幾度も言って聞かせた。
 その書生は鼻で遇《あしら》って、主婦が汲んで出す茶を飲みながら、昨夜《ゆうべ》の女の話などをしはじめた。
「あれ、厭な人だよ、手放しで惚気《のろけ》なんぞを言って。」
と、主婦はじれじれするような顔をした。
 するうちに、奥の暗い部屋で差《さ》しで弄花《はな》が始まった。主婦は小肥りに肥った体に、繻子《しゅす》の半衿のかかった軟かい袷《あわせ》を着て、年にしては派手な風通《ふうつう》の前垂《まえだれ》などをかけていた。黒繻子の帯のあいだに財布を挟んで、一勝負するごとに、ちゃらちゃら音をさせて勘定をした。
 学校から衆《みんな》が帰って来ると、弄花《はな》の仲間も殖えて来た。二男の糺も連中に加わって、出の勝つ母親のだらしのない引き方を尻目にかけながら、こわらしい顔をしていた。
 夕方になると、主婦《あるじ》は乗りのわるい肌の顔に白粉などを塗って、薄い鬢を大きく取り、油をてらてらつけて、金の前歯を光らせながら、帳場に坐り込んでいた。
「お神さんがまた白粉を塗っているのよ。」と、女中は蔭でくすくす笑った。
「××さんがこのごろほかに女が出来たもんだから、焼けてしようがないのよ。」
 女中は廊下の手摺《てす》りに凭《もた》れながらお庄に言って聞かせた。
 この書生は、外へ出ない時はよく帳場の方へ入り込んでいた。主婦と一緒に寄席へ行くこともあった。帰りにはそこらの小料理屋で一緒に酒を飲んで、出て行った時と同じに、別々に帰って来た。その書生は二十八、九の、色の白い、目の細い、口の利《き》き方の優しい男であった。
 主婦がその部屋へ入り込んでいるのを、お庄は幾度も見た。
「ちょいとちょいと、面白いものを見せてあげよう。」剽軽《ひょうきん》な女中はバタバタと段梯子《だんばしご》から駈け降りて来ると、奥の明るみへ出て仕事をしているお庄を手招ぎした。
 女中は二階へあがって行くと、足を浮かして尽頭《はずれ》の部屋の前まで行って、立ち停ると、袂で顔を抑えてくすくす笑っていた。
 十時ごろの下宿は、どの部屋もどの部屋もシンとしていた。置時計の音などが裏《うら》からかちかち聞えて、たまに人のいるような部屋には、書物の頁《ページ》をまくる音が洩れ聞えた。
 お庄は逃げるように階下《した》へ降りて行くと、重苦しく呼吸《いき》が塞《つま》るようであった。
 お庄は冬の淋しい障子際に坐って、また縫物を取りあげた。冷たい赭《あか》い畳に、蝿《はえ》の羽が弱々しく冬の薄日に光っていた。

     十三

 横浜の店をしまって、一家の人たちがまた東京へ舞い戻って来るまでには、お庄も二、三度その家へ行ってみた。
 家は山手の場末に近い方で、色の褪《あ》せたような店には、品物がいくらも並んでいなかった。低い軒に青い暖簾《のれん》がかかって、淋しい日影に曝《さら》された硝子《ガラス》のなかに、莫大小《メリヤス》のシャツや靴足袋《くつたび》、エップルのような類が、手薄く並べられてあった。
 飴屋《あめや》の太鼓の周《まわ》りに寄っている近所の鍛冶屋《かじや》や古着屋の子供のなかに哀れなような弟たちの姿をお庄は見出した。弟たちは、もうここらの色に昵《なじ》んで、目の色まで鈍いように思えた。
「正《まさ》ちゃん正ちゃん。」と、お庄が手招ぎすると、一番大きい方の正雄は、姉の顔をじっと見返ったきり、やはりそこに突っ立っていた。
 上って行くと、荒《さび》れたような家の空気が、お庄の胸にもしみじみ感ぜられた。母親は、この界隈《かいわい》の内儀《かみ》さんたちの着ているような袖無しなどを着込んで、裏で子供の着物を洗っていた。目の色が曇《うる》んで、顔も手もかさかさしているのが、目立って見えた。
 母親は傍へ寄って行くお庄の顔をしげしげと見た。頬や手足の丸々して来たのが、好ましいようであった。
「湯島じゃ皆な変りはないかえ。」
 お庄は台所の柱のところに凭《もた》れ
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