っちこっち見て歩き歩きしたが、するうちに店が尽きて、寒い木立ち際の道へ出て来た。
 公園を出たころには、そこらに灯の影がちらちら見えて、見せ物小屋の旗や幕のようなものが、劇《はげ》しい風にハタハタと吹かれていた。お庄はいつごろ帰っていいか解らないような気がしていた。
 帰って行くと、父親は火鉢の側《そば》で、手酌《てじゃく》で酒を飲んでいた。女も時々来ては差し向いに坐って、海苔《のり》を摘《つま》んだり、酌をしたりしていたが、するうちお庄も傍《そば》で鮓《すし》など食べさせられた。
「お前今夜ここで泊って行くだぞ。」父親は酒がまわると言い出した。
「この小母さんが、店の方がちと忙しいで、お前がいてしばらく手伝いするだ。」
「私帰って家の阿母《おっか》さんに聴いて見て……。」お庄は紅味《あかみ》のない丸い顔に、泣き出しそうな笑《え》みを浮べた。
「阿母さんも承知の上だでいい。」
 お庄は黙ってうつむいた。
「お庄ちゃん厭……初めての家はやっぱり厭なような気がするんでしょうよ。」と、女は傍《わき》の方を向きながら、拭巾《ふきん》で火鉢の縁《ふち》を拭いていた。
「お前はもう十三にもなったもんだで、そのくらいのことは何でもない。」
「少し昵《なじ》んでからの方がいいでしょうよ。」と、女も気乗りのしない顔をしていた。
 お庄はその晩、簪《かんざし》など貰《もら》って帰った。
 花見ごろには、お庄も学校の隙《ひま》にここの店番をしながら、袋を結《ゆわ》える観世綯《かんぜよ》りなど綯らされた。

     十

 品物の出し入れや飾りつけ、値段などを少しずつ覚えることはお庄にとって、さまで苦労な仕事ではなかったが、この女を阿母さんと呼ぶことだけは空々《そらぞら》しいようで、どうしても調子が出なかった。それに女は長いあいだの商売で体を悪くしていた。時々頭の調子の変になるようなことがあって、どうかするとおそろしい意地悪なところを見せられた。お庄はこの女の顔色を見ることに慣れて来たが、たまに用足しに外に出されると、家へ帰って行くのが厭でならなかった。
 お庄は空腹《すきはら》を抱えながら、公園裏の通りをぶらぶら歩いたり、静かな細い路次のようなところにたたずんで、にじみ出る汗を袂《たもと》で拭きながら、いつまでもぼんやりしていることがたびたびあった。
 慵《だる》い体を木蔭のベンチに腰かけて、袂から甘納豆《あまなっとう》を撮《つま》んではそっと食べていると、池の向うの柳の蔭に人影が夢のように動いて、気疎《けうと》い楽隊や囃《はやし》の音、騒々しい銅鑼《どら》のようなものの響きが、重い濁った空気を伝わって来た。するうちに、澱《よど》んだような碧《あお》い水の周《まわ》りに映る灯《ひ》の影が見え出して、木立ちのなかには夕暮れの色が漂った。
 女は、帰って来たお庄の顔を見ると、
「この人はどうしたって家に昵《なじ》まないんだよ。」と言って笑った。店にはこのごろ出来た、女の新しい亭主も坐って新聞を見ていた。亭主は女よりは七、八つも年が下で、どこか薄ンのろのような様子をしていた。この男は、いつどこから来たともなく、ここの店頭《みせさき》に坐って、亭主ともつかず傭《やと》い人ともつかず、商いの手伝いなどすることになった。お庄は長いその顔がいつも弛《たる》んだようで、口の利き方にも締りのないこの男が傍にいると、肉がむず痒くなるほど厭であった。男はお庄ちゃんお庄ちゃんと言って、なめつくような優しい声で狎《な》れ狎《な》れしく呼びかけた。
 男は晩方になると近所の洗湯へ入って額や鼻頭《はなさき》を光らせて帰って来たが、夜は寄席《よせ》入りをしたり、公園の矢場へ入って、楊弓《ようきゅう》を引いたりした。夜遊びに耽《ふけ》った朝はいつまでも寝ていて、内儀《かみ》さんにぶつぶつ小言を言われたが、夫婦で寝坊をしていることもめずらしくなかった。
 お庄は寝かされている狭い二階から起きて出て来ると、時々独りで台所の戸を開け、水を汲《く》んで来て、釜《かま》の下に火を焚《た》きつけた。親たちが横浜の叔父の方へ引き寄せられて、そこで襯衣《シャツ》や手巾《ハンケチ》ショールのような物を商うことになってから、東京にはお庄の帰って行くところもなくなった。お庄は襷《たすき》をかけたままそこの板敷きに腰かけて、眠いような、うッとりした目を外へ注いでいたが、胸にはいろいろのことがとりとめもなく想い出された。水弄《みずいじ》りをしていると、もう手先の冷え冷えする秋のころで、着物のまくれた白脛《しろはぎ》や脇明《わきあ》きのところから、寝熱《ねぼて》りのするような肌《はだ》に当る風が、何となく厭なような気持がした。
 お庄は雑巾を絞ってそこらを拭きはじめたが、薄暗い二人の寝間では、まだ寝息がスウ
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