の女に品物の仕入れ方を教わって、同じ店を小体《こてい》に出して見ようという考えであった。
 お庄は一月の末に、父親に連れられて一度その女の家へ行った。母親も薄々この女のことは知っていた。田舎からの父親の昵《なじ》みで、ずっと以前に、商売を罷《や》めて、その抱え主と一緒に東京へ来ていた。抱え主は十八、九になる子息《むすこ》と年上の醜い内儀さんとを置去りにして、二人で相当な商《あきな》いに取り着けるほどの金を浚《さら》って、女をつれて逃げて来た。そのころにはその楼《うち》も大分左前になっていた。
 その亭主は大して患《わずら》いもしないで、去年の秋のころに死んでから、男手の欲しいような時に、父親が何かの相談相手に、ちょいちょい顔を出し出ししていた。母親は、喧嘩《けんか》の時は、そのことも言い出したが、不断は忘れたようになっていた。父親は櫛《くし》など薄い紙に包《くる》んで来て、そっと鏡台の上に置いてくれなどした。
「こんらも高いものについているら。」と言って、母親は櫛を手に取って吐き出すように言ったが、抽斗《ひきだし》の奥へしまい込んで、ろくに挿《さ》しもしなかった。棄《す》てるのも惜しかった。
 お庄は手鈍《てのろ》い母親に、二時間もかかって、顔や頸《えり》を洗ってもらったり、髪を結ってもらったりして、もう猫《ねこ》になったような白粉《おしろい》までつけて出て行った。お庄は母親の髪の弄《いじ》り方や結い方が無器用だと言って、鏡に向っていながら、頭髪《あたま》をわざと振りたくったり、手を上げたりした。父親も側で莨を喫いながら口小言を言った。
「人に髪を結ってもらって、今からそんな雲上《うんじょう》を言うものじゃないよ。」と、母親も癇癪《かんしゃく》を起して、口を尖《とんが》らかしてぶつぶつ言いながら、髪を引っ張っていた。
「庄ちゃんの髪の癖が悪いからだよ。」
「阿母《おっか》さんに似たんだわ。」お庄もべろりと舌を出した。
 その女の家は、雷門《かみなりもん》の少し手前の横町であった。店にはお庄の見とれるような物ばかり並んでいたが、そこに坐っている女の様子は、お庄の目にも、あまりいいとは思えなかった。薄い毛を銀杏返《いちょうがえ》しに結って、半衿《はんえり》のかかった双子《ふたこ》の上に軟かい羽織を引っかけて、体の骨張った、血の気《け》の薄い三十七、八の大女であった。
「おや、お庄ちゃん来たの。」というような調子で、細い寝呆《ねぼ》たような目尻に小皺《こじわ》を寄せた。
 父親はじきに奥の方へ上って行った。奥は暗い茶の間で、畳も汚く天井も低く窮屈であったが、火鉢や茶箪笥などはつるつるしていた。そのまた奥の方に、箪笥など据えた部屋が一つ見えた。
 お庄は膝《ひざ》へ乗っかって来る猫を気味悪がって、尻をもぞもぞさせていると、女は長火鉢の向うからじろじろ見て笑っていた。

     九

 父親とその女との話は、お庄には解らないようなことが多かった。女はお庄のまだ知らないお庄の家のことすら知っていた。田舎の縁類の人の噂《うわさ》も出た。お庄はどこか父親に肖《に》ているとか、ここが母親に肖ているとか言って、顔をじろじろ見られるのが、むず痒《かゆ》いようであった。
「庄ちゃん小母《おば》さんとこの子になっておくれな、小母さんが大事にしてそこら面白いところを見せてあげたりなんかするからね。」と言ったが、お庄には、黙っている父親にも、その心持があるように思えた。
 女はそこらを捜して銀貨を二つばかりくれると、「お庄ちゃん、公園知っていて。観音さまへ行ったことがあるの。賑《にぎ》やかだよ。」と言って訊《き》いた。
「知ってるとも、すぐそこだ。」父親は長い顎《あご》を突き出した。
「独《ひと》りじゃどうだかね。」
「何、行けるとも。それは豪《えら》いもんだ。」
 お庄は銀貨を帯の間へ挟《はさ》んで、家だけは威勢よく駈《か》け出したが、あまり気が進まなかった。一、二度来たことのある釣堀《つりぼり》や射的の前を通って、それからのろのろと池の畔《はた》の方へ出て見たが、人込みや楽隊の響きに怯《おじ》けて、どこへ行って何を見ようという気もしなかった。
 お庄は活人形《いきにんぎょう》の並んだ見世物小屋の前にたたずんで、その目や眉《まゆ》の動くさまを、不思議そうに見ていたが、うるさく客を呼んでいる木戸番の男の悪ごすいような目や、別の人間かと思われるような奇妙な声が気になって、長く見ていられなかった。幕の外に出ている玉乗りの女の異様な扮装《ふんそう》や、大きい女の鬘《かつら》を冠《かぶ》った猿《さる》の顔にも、釣り込まれるようなことはなかった。
 今の家と同じような小間物店や、人形屋の前へ来たとき、お庄は帯の間の銀貨を気にしながら、自分にも買えるようなものを、そ
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