くつ》になってこうして立働きもしなければならぬという愚痴が、じきに始まった。
「私が寝てばかりいるもんだから、浅山にも気の毒でね。」と、従姉《あね》も萎《しお》れて言った。
 浅山が、今の役所を罷《や》めて、今度の帰朝を幸いに姉婿の方へ使ってもらう運動をしているのだが、それがうまく行きそうにもない様子が、母子《おやこ》の口から洩れた。
 お庄は伯母と従姉《あね》が、着るものを着ないでも、膳の上にうまいものの絶えたことのないのを知っていた。伯母が浅山と同じに、刺身などに箸をつけながら、ちびちび晩酌をやっていることもめずらしくなかった。お庄はこの人たちの貧乏するのに不思議はないと思った。
「……少し媒介人《なこうど》に瞞《だま》されたようですよ。」と、お庄は帯の間から莨入れを取り出して、含嗽莨《うがいたばこ》をふかしながら言い出した。
「始終家が揉《も》み合っているものですし、あの人だってちっとも柔順《おとな》しかありませんよ。」
「それでもいい男だという話じゃないかえ。――酒癖でも悪いと言うのかい。」と、伯母は切り髪頭の、長い凋《しな》びた顔を顰《しか》めながら言った。
 お庄は思っていることを、話すことも出来なかった。
 芳太郎を嫌っているお庄の心持は、従姉《あね》によく解った。
「老人《としより》の思うようじゃないんですよ。」と、従姉《あね》は、お庄の顔をじろじろ眺めながら、薄ら笑いをしていた。
「でもまア辛抱していさえすれば、あの家も始終はお前たち夫婦のものだでね。」
「そうは言っても、欲ばかしにかかってもいられませんよ伯母さん。」
 鮨《すし》を少しばかりおごって、茶呑み話にごまかしていながら、お庄はしみじみした話もしずに、やがてそこを出た。
「浅山から、中村さんによく話してもらって上げるからね、自棄《やけ》を起さないで、まア当分辛抱した方がいいでしょう。」
 帰りがけに、従姉《あね》はお庄の様子を気遣いながらそう言った。お庄がお照の稼《かせ》ぎに行っている茨城の方へでも行けば、自分の体一つぐらいは、自分の腕一つで、どうにでもして行けると言ったことが、従姉《あね》にも気にかかった。
「今夜は家へお帰りよ。心配さしても悪いでね。」と、伯母も門口まで送って出ながら行った。
 外はもう更けていた。そこらの芸妓屋や、劇場の居周《いまわ》りも静かであった。お庄は暗い町をすごすごと歩いていたが、どこへ行くという的《あて》もなかった。
 伝馬町の方へ出ようとする途中で、二、三度車夫に声をかけられたが、乗る決心もつかぬうちに、皆なやり過してしまった。
 停車場へ来たのは、もうよほど晩《おそ》かった。構内には、疲れたような人の姿がちらほら見えていた。お庄は薄暗い隅の方のベンチに腰を卸《おろ》しながら、上り下りどっちの切符を買おうかと思案していた。

     七十五

 その晩お庄は本郷の方に泊った。
 ちょうど正雄が来合わせていて、姉弟《ふたり》は久しぶりで顔を合わした。正雄はこれまでにも二度ばかり親方を取り替えた。体の弱いので、あまり仕事の劇《はげ》しい家では、辛抱がしきれなかった。お庄はそのたびに弟をつれて、前の主人へ話をつけたり、新しい洋服店へ交渉したりした。今の家は女主《おんなあるじ》であった。その主人はお庄のところへも遊びに来て、一緒に花など引いたこともあった。
 正雄は脚気で蒼い顔をしていた。お庄の変った様子を見て、にやにや笑っていたが、お庄も弟の様子がめっきり落ち着いて来たと思った。
「医師《いしゃ》が転地しろと言うそうで。」と、母親は一番体が弱くて可愛い正雄のことで先刻《さっき》から気を揉んでいた。
「しばらく田舎へでもやらずかと思うけれど……そうすれば叔父さんも一緒に行くと言うでね。――叔父さんも梅雨《つゆ》が体に障《さわ》ったようで、あれからずッと工合が悪いで、どうでも田舎へ帰ると言って、今その支度中さね。」母親は火鉢に凭《よ》りかかっていながら、屈托そうな顔をして、火箸で火を弄《いじ》っていた。
 家の荒《さび》れている様子が、ひしひしお庄の胸に感ぜられた。お庄が行くとき傭《やと》い入れた女中の姿も見えず、障子の破けた台所の方もひっそりして、二階にも人気がなかった。掃除ずきな自分がいなくなってから、そこらのだらしなく汚くなった状《さま》も、心持悪いようであった。
 この家を早晩畳まなければならぬことは、行く時分からお庄にも解っていたが、また帰って来てここを盛り返したいような気も、時々しなくもなかった。
 母親は、ここの雑作が売れ次第、借金を少し片着けて、それから田舎へ行きたいと言っている叔父のことや、お庄が行ってから、ここへ寄り着く人もめっきり少くなったことなどを言い出した。叔父が会社にいた時分の連中も、近ごろはと
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