らぬとも考えた。
天神下の叔父の家の二階に潜伏《しゃが》んでいる磯野とお増のことが、時々思い出された。お庄は明りがつく時分になると、天神の境内から男坂の方へ降りて行った。どの町を歩いても、軒ごとに門松や輪飾りが綺麗に出来|揚《あが》って、新しい春がもう来たようであった。羽子板を突いている少《わか》い娘たちの顔にも待ち遠しい色があった。
お庄は淋しい男坂を、また一人で登って来た。
「お庄も、ああしてうっちゃっておいちゃ悪いがな。」と、湯島の伯母が、蔭で気を揉んだ。
六十七
お庄が下谷《したや》の方のある眼鏡屋の子息《むすこ》と見合いをさせられることになったのは、一月の末であった。その眼鏡屋を、湯島の伯母の家主が懇意にしていた。家主が以前下谷で瀬戸物屋をしていた時分からの知合いで、今茲《ことし》二十四になった子息《むすこ》のこともよく解っていた。
お庄は伯母の家で、時々この家主の家の娘と顔を合わして双方が知っていた。娘はもう三十歳《さんじゅう》余りで、出戻りであったが、瀬戸物屋をしまってから、湯島の方へ引っ越して来た。母子二人きりで質素に暮し、田舎へ小金を廻しなどしていた。五、六軒ある借家の家賃の額も少くなかった。娘は名の聞えた呑んだくれの洋画家に縁づいていたが、父親が死ぬ前に、病気の見舞いに来ていて、父の遺言でそれきり帰らずじまいになっていた。
伯母とこの家とは、大屋と店子《たなこ》との関係以上の親しみがあった。瀬戸物屋などしている時分から界隈《かいわい》に美人の評判が高かったその娘は、糺を弟のように可愛がっていた。
「東京で開業なさるなら、資本ぐらいは家でどうにかしますよ。」と、その娘は伯母の前にも公然《おおぴら》に言っていた。
糺が田舎の身内続きのある医者の家を継がなければならぬことになってからも、この交際は続いていた。そのころには、画家から籍を取り復《かえ》されて、娘に養子が迎えられた。
この女が、母子《おやこ》と一所にあり余る財産を持っていながら、いつも着物らしい着物を引っ張っていたこともなく、顔には白粉一つ塗らずに、克明な姿《なり》をして、家賃を取り立てて歩いているのがお庄には不思議なようであった。惰《なま》けものの美術家に縁づいて、若い盛りを嫌《いや》な借金取りのいいわけに過して来た話を、お庄は時々この女の口から聞かされた。
この家へ、糺や繁三と一緒に、正月カルタを取りに行った時、女はしみじみした調子でお庄に縁談を勧めた。
「どこか堅いところへ速くお片着きなさい。やっぱり商売屋がいいんですよ。商いは何といっても強《つよ》ござんすからね。」
女は父親の死ぬ間際に、質に入っている着物が出せなくて、見舞いに来ることも出来ずにいた時の切なかったことなどを、また新しく語りだした。昼間うるさく借金取りに襲われる画家は、夜戸締りをしてから、やっと落ち着いて画板に向うことが出来た。幾晩もかかってその絵が出来揚ってから、久しぶりでようやく父親を見舞ったころには、病勢がもうよほど進んでいた。女の体は、それきり実家に押えられてしまった。
眼鏡屋の話は、その晩も母子の口から言い出された。そこはかなりに古い店で、財産と言うほどのものもないけれど、子息《むすこ》は小さい時から大事にして育ててあったから、世間摺れのしているようなこともないし、母親は少しは芸事なども出来て、気爽《きさく》な女だから、そんなに窮屈な家ではなかろうということであった。
磯野との関係を深くも知らないこの母子の前で、お庄は応答《うけこたえ》のしようもなかった。纏《まと》まって何一つ|躾《しつ》けられたことのない体で、そんな母子のなかへ入って、日が暮せそうにも思えなかった。
その子息《むすこ》が、遊びに来ている時、お庄は迎えを受けて、湯島の伯母に連れられてしょうことなしに出て行った。
「あらたまった姿《なり》をして行くには及ばんで、羽織でも一枚上へ引っ被《か》けて……。」と、母親と二人、支度でごたごたしている奥の方へ伯母が声をかけた。
子息《むすこ》は茶の室《ま》の火鉢のところに坐って、老母《としより》と茶を呑んでいた。撫《な》で肩の男の後姿が、上り口の障子の腰硝子から覗くお庄の目についた。同時に振り顧った男ののっぺりした色白の細面《ほそおもて》も、ちらと目に入った。
裏口の方へ廻されたが、お庄はそこからも入り得ずにやがて逃げて帰った。
六十八
春の末に郊外のある町へ片づいて行くまで、お庄は家にぶらぶらしていた。
その町は飯田町《いいだまち》から汽車で行って、一時間ばかりの道程《みちのり》であった。家は古い料理屋で、東京から西新井《にしあらい》の薬師やお祖師様へ参詣《さんけい》する人たちの立ち寄って飲食する場所であ
前へ
次へ
全69ページ中53ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング