ことになるか解らないと思った。拭き掃除をする気にもなれなかった。そしてバケツをそこへ投《ほう》り出したまま、うんざりしていた。
叔父は出て行ったきり、二、三日家へ寄りつきもしなかった。
その間に中学の先生だという例の男が、二度も来て店へ坐り込んでいた。お庄は色の褪《あ》せたインバネスに、硬い中折を冠ったその姿を見ると、またかと思って奥へ引っ込んで行った。火の気の少い店頭《みせさき》で、事務員はこの男と日が暮れるまで向い合っていた。男は近所の蕎麦屋《そばや》へ行って、空《す》いた腹を満たして来ると、赤い顔をしてまたやって来た。
「まだお帰りになりませんか。どこか心当りはありますまいかね。」男は楊枝《ようじ》で口を弄《せせ》りながら、奥を覗《のぞ》き込んで、晩飯を食べている三人の方へ声をかけた。
「ああして来て待っているのに、あんまりうっちゃり放しておいてもね。」と、お庄は晩飯をすますと、顔を直したり、着物を着替えたりして、仕立て直しの叔母の黒いコートを着込んで、叔父を捜しに出かけた。
しばらく出なかった間に、町はそろそろ暮の景気がついていた。早手廻しに笹の立った通りなどもあった。賃餅の張り札や、カンテラの油煙を立てて乾鮭《からざけ》を商っている大道店などが目についた。
やがて湯島の伯母の家の路次口に入って行ったのが、九時近くであった。
「私のとこへは、小崎はまだ葬式《とむらい》の挨拶にも廻って来やしないぜ。」と、伯母は二階から降りて来て、火鉢の前に坐ると、めかし込んだお庄の様子をじろじろ眺めた。
「何だか会社を始めるとか、始めたとかいうことを聞いたが、そんな投機《やま》をやってまた失敗《しくじ》らなけアいいが。」伯母は苦い顔をしてこうも言った。
二階で糺の友達が多勢寄って花を引いていた。お庄はしばらく、そんな音を聞いたことがなかった。
「お前いくらか懐にあるだかい。」花には目のない伯母がにやにや笑いながら、段梯子を上って行くお庄に言いかけた。
その晩おそくまで、お庄はそこで花を引いていた。取られ分を取り復《かえ》そうと焦心《あせ》っているうちに、夜が更けて来た。連中には古くから昵《なじ》みの男もあり、もう髭を生やして細君を持っているらしい顔もあった。お庄はそんな中に交って燥《はしゃ》いだ調子で弁《しゃべ》ったり笑ったりした。
明日《あした》昼ごろに、お庄は金六町の家へ帰って来ると、昨夜《ゆうべ》帰った叔父が二階にまだ寝ていた。三和土《たたき》に脱いである見なれぬ女の下駄がお庄の目を惹《ひ》いた。
「……芸者だか何だか……。」と、母親は笑っていた。
五十六
お庄らが母子《おやこ》の仕事として、ひっそりした下宿を出そうと思いついたのは、この事務所を畳んでから、一家が丸山の隣の小さい借家へ逼塞《ひっそく》してからであった。それまでに会社の方はパタパタになっていた。欠損を補うべき金や、下宿の資本《もと》を拵えると言って、叔父は暮に田舎へ逃げ出したきり、いつまでも帰って来なかった。
河岸《かし》の家で、叔父が一、二度二階へ連れ込んで来た女が、丸山の田舎の嫂《あによめ》の姪《めい》であることが、お庄母子にじきに解った。その女はお照と言って年はお庄からやっと一つ上の十九であったが、もう処女ではなかった。東京へ出るまでには思い断《き》ったこともして来た。
丸山の隣へ引っ越して行ってから、この女とお庄はじきに近しい間《なか》になった。女は痩せぎすな※[#「※」は「兀+王」、第3水準1−47−62]弱《ひよわ》いような体つきで、始終黙ってはずかしげにしていたが、表に見えるほど柔順《すなお》ではなかった。お庄にはどこか調子はずれのところがあるようにも思えた。叔父は丸山へ行って碁を打っているうちに、この女と親しくなった。女は碁もかなりに打てたが、字なぞも巧《うま》かった。
一ト晩中、女は安火《あんか》に当って、お庄母子に自分のして来たことを話して聞かした。田舎で親々が長いあいだ取り決めてあった許婚《いいなずけ》の人を嫌《きら》って北国の学校へ入っている男を慕って行った時のことなどが詳しく話された。女は暑中休暇に帰省している親類先のその男の家へ、養蚕の手助けに行っているうちに、男と相識《あいし》るようになった。
男が学校へ帰って行ってから間もなく、女は目ぼしい衣類や持物を詰め込んだ幾個《いくつ》かの行李をそっと停車場まで持ち出して、独りで長い旅に上った。
「その時のことは、今から想《おも》うとまったく小説のようよ。」と、女は汽車のない越後から暗い森やおそろしい河ばかりの越中路を通るとき、男に跡を尾《つ》けられたことや脅迫されたことなどを話した。
制裁の厳《きび》しい寄宿に寝泊りしていた男は、一、二度女の足を止めてい
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