る宿屋へ来て、自分の事情を話して帰ったきり、幾度訪ねても逢わなかった。手紙を出しても来なかった。
三月ほど経って、兄が女を連れ戻しに行ったころには、女は金も持物もなくして、霙《みぞれ》の降る北国の寒空に、着るものもなくて、下宿屋に下女働きをしていた。田舎へ引き戻されてからも、町に落ち着いていることも出来なかった。許婚先へ対しても、家にいるのがきまり悪かった。
「どうせ私は田舎などへ帰りゃしませんよ。嫁にだって行きゃしません。家で怒ってかまわなくなったって何でもありゃしない。金沢で下宿の厠《はばかり》の掃除までしたことを思や、自分一人ぐらい何をしたって食べて行かれますよ。」女は太腐《ふてくさ》れのような口を利いた。
「一人でやって行くなら、碁会所でも出したらどうだ。」叔父はこの女に時々そんな心持も洩らした。
「彼奴《あいつ》も変だが、小崎さんも少しひどいや。」と丸山は、叔父の田舎へ行っている留守に、折々茶を呑みに来ては、お照の噂をして母親に厭味を言った。
女はお庄の家へ来て、机に坐って叔父へ長い手紙を書いた。手紙にはお庄に解らないようなむずかしいことが書いてあった。女は小説でも読むような気取りで、母子にその文句を読んで聞かせた。お庄は狂気《きちがい》じみたその顔を瞶《みつ》めながら笑い出した。
叔父から返事が来た。女は手紙の字が巧いと言って、独りで感心していた。
「あなたの叔父さんは真実《ほんとう》に深切よ。」
「深切だか何だか知らないけれど、家の叔父さんはもうお爺さんよ。」
「お爺さんだっていいじゃないの。一生一つにいやしまいし……。」
五十七
繁三をつれて、三月の東京座を見に行った叔父が、がちがち顫《ふる》えて帰って来た。顔が真青《まっさお》になって、唇に血の気《け》がなかった。
叔父は田舎から帰ってからも、家に閉じ籠《こも》って考えてばかりいたが、気が塞《つま》って来ると、時々想い出したように、誰かを引っ張り出して芝居や寄席へ行った。その日はちらちらと雪が降っていた。芝居のなかも暗く時雨《しぐら》んだようで、底冷えが強く、蒲団を被《か》けていても、膝頭《ひざがしら》が寒かった。叔父は背筋へ水をかけられるようで、永く見ていられなかった。
日の暮れ方に、俥で金助町の新しい家へ帰って来ると、褞袍《どてら》を引っかけて、火鉢の傍に縮まっていた。
「どうしたというんだろう。」と、母親は会社の紛擾《ごたごた》から引き続いて、心配事ばかり多い弟の体を気遣った。
「なあに感冒《かぜ》だ。ヘブリンの一服も飲めば癒《なお》るで。」叔父はそう言いながら、繁三を相手に酒を飲んで芝居の話などしていた。
お照がしばらくここの家に隠れていた。あっちの家を引き払うころから、お照のことで、叔父と丸山とは互いに気持を悪くしていたが、ここへ引っ越してからも、あまり往来《ゆきき》をしなかった。丸山が女を捜しに来ると、女は二階へあがって客の部屋に隠れていた。丸山は終《しま》いに女をかまいつけなくなった。
病院以来懇意になった糺の友達の医師《いしゃ》が、その晩もぶらりと遊びに来て、叔父と碁を打ちはじめた。叔父は一勝負やっと済ますと、碁盤を押しやって顔を顰《しか》めた。石持っている間も時々|顫《ふる》えていた。
「おかしいな。」と、医師《いしゃ》は繁三に糺の聴診器を取り寄せさして、叔父の体を見た。
医師は骨立った叔父の胸をそっちこっち当って見ているうちに、急に首を捻《ひね》って肺のところをとんとんと強く敲《たた》きはじめた。
「どうも少しおかしい。」医師は側を離れると、溜息を吐いて、急いで縁側へ手を洗いに行った。
「肺病にでもなっているのじゃないらか。」母親は傍から心配そうに言った。お照もお庄も、黙って叔父の顔を眺めていた。
「私の肺は、人に優《すぐ》れて丈夫だと言われたもんだが……。」
と、叔父は肩を入れながら呟《つぶや》いた。
医師も繁三も、じきに帰った。
「とにかく院長に一度|診《み》ておもらいなさい。うっちゃっておいちゃいけない。」医師《いしゃ》は繰り返しそう言って出て行った。
酔いのさめた叔父は、また酒でも飲まずにはいられなかった。
「そんなに酒を飲んでもいいらか。あの医師《いしゃ》がああ言うくらいだで、どこかよい医師に診てもらうまで、むやみなことをしない方がいい。」
「あの竹の子医師に何が解るもんで……。」
叔父はお照に酌《しゃく》をしいしい自分にも飲んだ。
湯島の伯母に引っ張り出されて、叔父はその翌日《あくるひ》駿河台の病院へ診てもらいに行った。
「結核も結核、ひどい結核だと言うでないかい。」と、伯母はお庄と母親が朝飯を食べているところへ飛び込んで来て顔を顰めた。
二人はびっくりして、箸を休めた。
「昨夜《ゆうべ
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